自宅から会社まで40km走る

 入社したのは高度成長期真っただ中の1966年。新入社員は150人で、7割方が中卒の工場勤務要員だった。高卒の三村は研究所に行けると期待したが、配属されたのは第2製造課。多品種少量生産の部署で、1種類あたり50~100足を手作業で作る仕事だ。靴型に合わせてアウトソール、足型に合わせてインソールを手で裁断し、糊で貼る作業は非常に繊細で神経を遣う。「ナイフひとつ研ぐのに1~2年かかる」とさえ言われていて、作業の難易度は高く、ひとつひとつ覚えていくのは大変だったというが、持ち前のガッツとド根性でぶつかった。

「“職場で1番になるんや”という気持ちは常に自分の中にありました。中学時代に万年2番だったことの反骨心が大きかったんでしょう。多少の失敗もありましたけど“また作り直したらええねん”と前向きな気持ちで働きましたね。怒る上司もいなかったですし、同じ職場のおばちゃんたちも“あんた、これ食べなさい”と毎日、昼飯を持ってきてくれた。職場環境には恵まれたね。6年いたけど、あそこで靴作りの基本を叩き込んだからこそ、その後の人生があったと思います」

 6年後の'71年には念願の研究所へ異動。ゴムの配合やスポンジの強度など素材の研究を進めると同時に、クッション性・摩耗性・軽量性のバランスを見ながら強度をテストするなど、あらゆる角度から靴を徹底的に学ぶチャンスに恵まれた。

「加古川の自宅から会社まで40kmあったんですが、試作品をはいてその距離を走ることも頻繁にやりました。ソウル五輪のときに瀬古や新宅雅也、中山竹通がはいた靴は100gだったんですが、それだとマラソン2レースしかもたない。軽量化を追求すると耐久性に支障が出てしまう。そういうよしあしを実際に自分の足で確かめなければいけないと思って、よく走ったものです」

1969年、全日本青年陸上大会にて。自分が陸上競技に真剣に取り組んできたからこそ靴職人になった今、選手の気持ちに寄り添えるのかもしれない
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 三村が学んだ「いい靴」というのは、以下の8条件が備わっているものだ。

 耐久性、フィッティング性、通気性、軽量性、安定性、グリップ性、クッション性、衝撃吸収性。

 これらすべてを備えた靴を作るのは至難のワザだが、ひとつの要素も欠いてはいけない。それを脳裏に刻み込んだうえで、3年後には開発部へ赴き、別注シューズの開発をスタート。同時に鬼塚喜八郎社長(当時)から直々に「『走る広告塔』になってくれる選手を探してこい」と指示を受け、トップランナーの開拓も任された。

 地方の陸上大会をはじめ、全日本大学選手権や大学駅伝、実業団駅伝、全日本選手権など主要大会に通い詰めた三村は、'64年東京五輪でマラソンを走った君原健二、寺沢徹ら超一流選手とも親交を深めた。