世界で数えるほどしかいない靴職人・三村が生まれたのは、戦後間もない1948年8月。妹2人がいる3人きょうだいの長男として印南郡志方町(現・加古川市)で育ち、田んぼや畑を駆け回る活発な少年時代を過ごした。

ナンバーワンへの強いこだわり

 池で泳いだり、大好きなソフトボールのピッチャーとしても鳴らしたが、いちばん得意だったのは駆けっこ。志方西小学校時代は毎年のようにリレーの選手として活躍し、志方町にある3つの小学校の対抗戦でも優勝するほどの存在感を誇った。

 志方中学進学後は1か月だけ野球部に入ったものの、練習が厳しすぎて断念し、すぐに陸上部へ転籍。駅伝大会にも出場した。校内のマラソン大会も当然優勝できると本人も信じていたが、3年連続でまさかの2位。この屈辱感が生来の闘争心に火をつけた。

「当時は戦後のベビーブームで1学年350人もいましたから、そこで1番になれば、スターになれると思っていました。ところが、野球部の同級生に負け続けた。本当に腹が立ってしかたがなくて“この後の人生では1番になるんや”と決意したんです」

 ナンバーワンへの強いこだわりが進路にも影響した。学業優秀だった三村は進学校を周囲からすすめられたが、「勉強より、陸上で1番になる」と県内随一の強豪校である飾磨工業高校を選択。姫路市内まで片道1時間半かけて通う日々が始まった。陸上部には県内のトップランナー20人が集結。下から2番目のブービーだったが、先輩たちの厳しい説教としごきが災いして1学期で3分の1が退部。2年に進級するときには半分に減り、同年秋にはわずか4人になってしまったという。

「私もきつくて心が折れそうになりましたけど、“親や先生の反対を押し切って飾磨へ行ったんだから高校の中では1番にならなアカン”という思いが強くて、絶対にやめることはできなかった。朝は6時に家を出て朝練をこなし、午後練をやって帰宅した後、21時ごろからまた家の近所を走ることもありました」

 同じ釜の飯を食った同期メンバー、中川広信(71)も「三村は夏休みになると自宅から約30kmの距離を走ってきていました。キャプテンも務めましたけど、本当に負けず嫌いの男でした」と語る。

 最終的に陸上部では1番になれたものの、高校総体は故障で欠場し、真の意味で「1番になる」という目標はかなわずじまい。その野心は社会人時代へと持ち越された。

 三村は大学に進まず、スポーツメーカーへの就職を決意。親戚のツテを頼って神戸市内にあるオニツカ(現・アシックス)を受けに行くことになった。オニツカは'64年東京五輪で体操、レスリング、バレーボール、マラソンなどの競技で金メダル20個、銀メダル16個、銅メダル10個の合計46個を獲得している一流企業。そこに採用されたのは幸運に違いなかった。

1971年、オニツカ陸上部の同僚と練習に励んだ。先頭の右が三村さん
1971年、オニツカ陸上部の同僚と練習に励んだ。先頭の右が三村さん
【写真】瀬古選手の練習に付き合う三村さん、高橋尚子さんとの食事会ほか

「当時のグラウンドはどこも小石がいっぱいで、主流だった綿素材の靴がすぐに破れてしまう環境でした。私の場合は2週間で右足の外側が破れて継ぎ当てをして走っていましたけど、どうしても年間15~20足は必要。1足880円だから年間1万~2万円はかかります。教員の初任給が1万6000円の時代ですから、“ホントに靴を何とかせなアカン”という思いが強かった。“研究所でいい靴を作りたい”と目標を持って入りました