周囲の思いに応えるように瀬古は'83年の東京国際・福岡国際の両マラソン大会に優勝。ロス五輪イヤーを迎えた。だが、過度な練習がたたったのかコンディションが上がらず苦しんだ。本番直前には血尿が出るアクシデントも発生。女子マラソンに出場する同じエスビー食品の佐々木七恵のレースのため、ひと足先に現地入りしていた中村監督から事実を打ち明けられた三村は、ロスに到着した瀬古の青白い顔を見て「これは難しいな」と実感したという。

 結局、ロスは14位。翌年5月に中村監督が急逝し、瀬古を取り巻く環境はガラリと変わったが、三村は相談相手として要所要所で傍らに寄り添い、9位でフィニッシュした'88年ソウル五輪まで後押しし続けた。

 瀬古は改めて感謝の言葉を口にした。

「三村さんの存在は僕のランナー人生そのものという感じ。ランナーはシューズがないと始まりませんし、365日ともに過ごすもの。合うか合わないかは極めて重要ですし、三村さんとは本音で意見をぶつけ合うことができた。

 大正生まれで元陸軍士官だった中村監督は厳格な人で、選手には厳しい態度で接していましたけど、三村さんには愚痴を言ったり、たわいもない話ができたんでしょう。心のオアシスというか、クッションのような役割になってくれたのかな。ありがたい存在でしたね

有森が痛みを訴えた

 昭和から平成へと時代が移り、三村の活躍の場はさらに広がった。'90年代に入ると日本のマラソンはさらにレベルアップし、'91年世界陸上(世陸)では男子マラソンで谷口浩美が優勝し、女子マラソンでも山下佐知子が2位に入るなど、優れたランナーが続々と頭角を現す。中でも特筆すべきなのが、'92年バルセロナ五輪の女子マラソンで銀メダルを獲得した有森裕子である。

スポーツシューズ職人『M.Lab』三村仁司さん 撮影/齋藤周造
スポーツシューズ職人『M.Lab』三村仁司さん 撮影/齋藤周造
【写真】瀬古選手の練習に付き合う三村さん、高橋尚子さんとの食事会ほか

三村さんの別注シューズを作ってもらえるのは日本代表選手だけ。私は'91年世陸でマラソン代表になったときに初めてお願いできるようになりました。それまで市販のシューズをはいていたと伝えたら怒られましたね(苦笑)。バルセロナのときは三村さんにじっくり時間をかけて作っていただきました。本番前は、その靴と別メーカーの靴の2足で練習していて、レース4日前にボルダーからバルセロナに入ったんですけど、足が痛くてどうにもならなかった。すがるようにして“三村さん、何とかしてください”とお願いしたのをよく覚えています」

 当時、三村はアシックスの拠点に詰めていた。小出監督から「話がある」と呼び出されて行ってみると、メダル有力候補の有森が右足甲の痛みを訴え、ゆっくりとしたジョギングしかできない状態だと告げられた。