何となくその場の雰囲気に同調する多くの同級生からすれば、「空気が読めない」「変わった」子どもだったともいえる。

「いつも自分が周りから浮いている気がしていました。幸い成績はよかったのですが、“出すぎた杭”みたいな感じで、絶対に評価されない。そのことに自分でも苛立ちを感じていたし、友達関係でも、僕は怒らせるつもりはないのに、周りの子がめちゃくちゃ怒ったりする。これは自分が普通じゃないのが原因なのかな、と悩んで、どうしたら普通になれるのかをすごく追いかけていました」

世の中をよりよくするために何ができるか、解決すべき問題は何かを考えることが生きていくうえで大事だと語る 撮影/齋藤周造 
世の中をよりよくするために何ができるか、解決すべき問題は何かを考えることが生きていくうえで大事だと語る 撮影/齋藤周造 
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 やがて「いじめにあうのは自分が悪いんだ」という思考に向いてしまうときもあった。

「自殺してしまう子は、そっちのほうへ思いつめていくんだと思います。本当は誰しも、生きているだけで価値があるのに」

 先生たちは見て見ぬふり、親に話して教育委員会に相談してもたらいまわし。自分でこの環境から脱出しなければ、大人は助けてくれない。そう悟った彼が選んだのは中学受験だった。

「そこからは必死に勉強して、授業料が減免される特待生で、私立の桜丘中学校に入学しました。僕をいじめてるやつらは、みんな成績が悪いから、僕は勉強して、将来はやつらを搾取する側に立ってやるんだ、と。すごくゆがんだ動機づけですけど、そう思えたことで死なずにすんだのだと思います」

一転、いじめの加害者に

 しかし、あろうことか入学した中学校では自分がいじめる側の体験をすることになる。

「僕が3年生のときに、囲碁部の部長をしていて、次の部長格だった後輩ともめたんですよ。そのときに部活の雰囲気が悪くなったので部員全員を集めて話し合いをした。そこに、僕ともめた後輩が来ないまま欠席裁判のような形で、その子をやめさせようという話になったんです」

 それが結果的に、いじめだとされ、学年全体を巻き込む大騒ぎとなり、部活は卒業まで活動禁止となった。

「その当時の僕は、むしろ部活の秩序を脅かされた被害者だと思っていたので、いじめと言われても認めることができなかった。自分が受けていたいじめとは違って、僕らはクソだの死ねだの悪口も言ってないし、殴る蹴るもしていない。このくらい、いじめに入らんやろって」

 幸い、その後輩とはすぐに仲直りをして、もとのように一緒に遊んだりもしていた。

「それでも先生にめちゃくちゃ怒られたので、僕には加害者になったという記憶が残りました。でも、そもそも、いじめの加害者は、自分がいじめたことを絶対に覚えてないと思うんです。遊びの一環だった、ふざけただけだった、悪気はなかったとか、いろいろ理由はあるけれど、きっと誰でもどこかで加害者になってることがあると思う」

 自覚がないままにいじめが行われているとしたら、それをどう止めることができるのか。いじめの根の深さを山崎自身が強く体感した出来事だった。