啓章さんの事故には、実はたった1人、目撃者がいた。日本へ就労にやってきた、日本語も不自由なボリビア人女性で、事故の瞬間、反対車線側にある公衆電話で電話をしていた。そこから事故の様子を目撃していた。

「事故被害にあった当日のことです。警察署に行ったら、目撃者の彼女と私、加害者Yの雇い主の3人がいたんです。今でも覚えていますが、警察の事務机のところですよ。左側に彼女がいて、警察官が事情を聞いていた。その2人の横に雇い主がいる。そんな状況でヒヤリングをしているんですよ」

 たまらず片瀬さんは注文をつけた。

「“雇い主は隣のやりとりが聞こえるじゃないか。あとで私にも、目撃者に話を聞かせてくれ”と。警察からは“はい、わかりました”と言われたけれど、私たちの聴取が終わるとすぐに、目撃者を帰してしまったんです」

 片瀬さんが抗議すると、警察官からこんな言葉が返ってきた。

 “息子さんにも悪いところがあったんじゃないのか? 加害者ばかりを責めることはできない─”。

 事故が起きた1994年は、情報提供や相談といった犯罪被害者に必要な支援を定めた犯罪被害者等基本法が制定される10年前。片瀬さんら遺族への対応など、当時はその程度のものだったのだ。

事故現場となった横浜市磯子区中原の交差点付近。幹線道路ではないが朝夕の交通量は多い
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「何があったのか、真実が知りたい」

 8月のお盆のころから、片瀬さんの目撃者探しが始まった。初日は馬場さんも交差点で付き添った。当時の親友の様子を振り返って言う。

「僕が助かったのは、片瀬くんも奥さんも1粒も涙をこぼさなかったこと。気持ち的にはすごく落ち込んでいるのがわかるんだけど、もし泣かれていたら、返す言葉がなかったと思う」

 片瀬さんが胸の前に抱えたプラカードには、“8月3日の夜10時20分ごろ、この交差点で交通事故がありました。見た人はいませんか?”という一文と連絡先があった。パチンコ店の店頭や銭湯、コンビニにも同じ内容の張り紙を貼り、電柱には針金でくくりつけた。

「目撃者捜しで街頭に立っていたら、ある人が“この奥に団地があるのを知っていますか? そこの住民は、この交差点を通って通勤しているんです”と教えてくれて。今だから言えますが(苦笑)、それで会社のコピー機で200枚ぐらいバーッとコピーを取って。かみさんと手分けしてポスティングもしました」

 いつ連絡がくるかと、一日千秋の思いで待った。電話のベルが鳴るたび、“もしや……!?”と胸が高鳴る。事故を知った地元の人が現場に花を供えてくれたり、飲み物を差し入れてくれたり。見知らぬ人々の善意に片瀬さんは思わず胸を熱くしたが、目撃者が名乗り出ることはついになかった。

啓章さんがつけていた時計の針は事故の時刻10時21分を指したまま

 事故の翌年の'95年6月、ダンプカーを運転していたY氏へ、刑事裁判の判決が下された。結果は、免許取り消しと罰金わずか50万円─。

 唯一の目撃者だった前述のボリビア人女性が、啓章さんのバイクがダンプの前に割り込んだと証言。バイク側の過失は8割、ダンプカー側は2割と判断されたがゆえの量刑だった。

「ですが、ダンプの真後ろに止まっていた乗用車の運転手さんの証言では、“ダンプの左側には駐車車両があってバイクが通るスペースはない。割り込んだとしたら右側からになりますが、その記憶はありません。見ていません”と言っているんです」

 さらには、運転手(Y氏)を呼びつけて話を聞くと“バイクがどこにいたのかわかりません”と話す。“じゃあ、何をやっていたの?”と聞いたら、“(信号待ちの停車中は)伝票を見ていました”と言うんです

 わが子を奪われた親にとって、とても受け入れられる判決ではなかった。調書を読んでも、事故直後に巻き尺片手にみずから作った事故現場の見取り図を眺めても、裁判所の判決には納得できない。