竹中平蔵に国会のトイレを教えた

 鮫島浩さんは1971年、神戸生まれ。香川県立高松高校から京都大学の法学部へ進み、朝日新聞に入社し、27歳で花形の政治部へ。自民党の小渕恵三元総理大臣、重鎮の古賀誠元幹事長や与謝野馨元官房長官、そして小泉政権での竹中平蔵金融・経済財政政策担当大臣、民主党の菅直人元総理大臣と、幅広く番記者として担当し、39歳の若さで政治部デスク(次長)に抜擢された。鮫島さんはエリート中のエリート新聞記者だった。

元朝日新聞政治部の記者・鮫島浩さんと、『時給はいつも最低賃金、これって私のせいですか?国会議員に聞いてみた。』著者の和田靜香さん
元朝日新聞政治部の記者・鮫島浩さんと、『時給はいつも最低賃金、これって私のせいですか?国会議員に聞いてみた。』著者の和田靜香さん
【写真】出版社の豪華な椅子にジーンズとチェックのシャツのラフな姿で座る鮫島さん

「竹中平蔵さんは、今では日本を弱肉強食の社会にした大物戦犯で、既得権益の代表のように言われているけれど、僕が記者として担当した、彼がまだ永田町に来たばかりだった21年前は弱小の民間人大臣だったんですよ。言い換えれば、挑戦者。今じゃ信じられない? でも僕は国会のトイレの場所まで教えてあげたんだから。『鮫島さん、トイレどこですか?』って焦って聞いてくるから。

 最初は誰にも相手にされずバカにされて、財務省のエリート官僚なんかは『何あれ?』なんて鼻で笑ってる。そりゃ僕とは政策的意見は合いません。でも、あのときの彼の闘いを、知ってるから。何もない弱小軍団、ちびっこギャング軍団みたいなところから官僚たちへ攻め入るわけよ。気がつくと財務省をやっつけ、今や逆に霞が関全体が竹中化している。竹中さんは勝ったんです

 本にはこうある。

「私の竹中氏取材は、権力者の懐に食い込んで情報を入手する旧来型のアクセスジャーナリズムの典型である。竹中氏らが抵抗勢力との戦いを有利に進めるために番記者である私(朝日新聞)を味方に引き込み情報を流したのは間違いない。朝日新聞はそれを承知の上で、情報の確度を精査して主体的に報道すべき事実を判断して記事化していたが、結果的に竹中氏を後押しする側面があったことは否めない」(第二章より)

 その後、鮫島さんは自民党内で改革派だった竹中氏に対して、抵抗勢力側のドンであった古賀誠元幹事長の番記者になる。ふつう政治部の新聞記者は自民党のある派閥の番記者になると、同じ派閥、同じ政治家を長く追いかけることになるのだという。担当する政治家の浮沈が自分の記者としての出世にも直結して、政治家と運命共同体みたいになっていくんだとか(なるほど、だから批判はしづらくなる)。ゆえに鮫島さんの担当替えは異例のことだった。

「僕なんか最初から跳ねっかえりで政治部1年目にして会社の悪口言いまくってた奴で、読売新聞あたりだったらとっくにクビになっただろうけど、朝日新聞だと当時はそういうのを“面白い奴”と引き立てる茶目っ気というか、ジャーナリズムはこんなもんだという理解がまだ上層部にあったんだよね。だからすごく若くしてデスクにもなったし、抜擢もされた。僕は別にそうなっても、それまでの雰囲気を変えたつもりはなかったんですよ」

 そう話す鮫島さん。でも、本人も知らず知らずのうちにエレベーターに乗る側になっていなかったろうか。2010年に政治部デスクに昇格すると、民主党結党当時から懇意にしていた菅直人総理大臣(当時)とは、ほかのどの記者よりもツーカー。震災のあった2011年ころには「政治報道に携わる者として、社内外でこれほど強い立場に立つことは二度とないだろう」(第四章より)というほどになる。

「俺の記事を読め! ここに答えが書いてある! 何でこれが分からないんだ? これが民主主義だ! これが憲法だ! (当時の自分は)そう、やってたからね」

 でも、鮫島さん、ひとりでイキって肩で風切るだけのスカした記者だったわけじゃない。