花の82年組、新人賞レースへ

ファンが撮ったアイドル・北原佐和子。写真で着ているのはパンジースタジャンだそう
ファンが撮ったアイドル・北原佐和子。写真で着ているのはパンジースタジャンだそう
【写真】デビュー間もない北原佐和子が美人すぎる

 それからの北原はすべてがとんとん拍子だった。まず1981年8月に『パンジー』というグループが結成される。オスカーが初めて手がけるアイドルグループだった。

「自分の知らないところで大人たちが動き、いろんなことが決まっていきました。パンジーのメンバーはあまりモデルっぽくないほうがいいとのことで、同じころにオスカーに入った三井比佐子ちゃんと、すでにモデルとして人気のあった真鍋ちえみちゃんの3人がメンバーに選ばれました」(北原、以下同)

 パンジーは雑誌の表紙やグラビアを数多く飾りつつも、3人そろって歌謡番組に出ることはなかった。その代わり、翌3月、北原がソロ曲『マイ・ボーイフレンド』でデビューしたのを皮切りに、各メンバーが相次いでソロ活動を始めた。それがオスカーのデビュー前の戦略だった。

「雑誌の露出がとにかく多かった。喫茶店でメンバーが座る前に記者が次々と現れ、取材を受けました。そうしてパンジーを売り出す一方、別々のレコード会社に所属した3人はそれぞれで新人賞を競い合いました。オスカーにしてみれば全員に力を注ぐのは難しく、なかなか関係がうまくいかなくなり、結局1年も行動を共にしませんでした。忙しすぎてあまり覚えていないのですが、本当に数か月だけだったと思います」

 そんななか、パンジーのメンバーがそろって撮ったのが映画『夏の秘密』。自殺した旧友の謎を探るというミステリーだ。若山富三郎さんや阿藤快さん、ビートたけしらが出演し、音楽は細野晴臣が担当するなど、豪華なキャストだった。

 北原が“さわやか恋人一年生”をキャッチフレーズにデビューした1982年は、中森明菜や小泉今日子、堀ちえみら個性ある新人アイドルが数多く誕生したことから、“花の82年組”と呼ばれ、今日まで語り継がれている。

 このとき北原は18歳。同年にデビューしたほかの歌手に比べて年上だった。2歳、3歳の差がとても大きく感じられ、彼女らが子どもっぽく見えたという。ただ実力が本当にある人、きちんとレッスンを積んでいる人たちの中で、自分は実力もなければ、レッスンもまともに受けておらず、新人賞レースに加わるのはつらかった、と振り返る。

「デビュー前にレッスンがなかったわけではありません。“練習してきて”と突然言われ、何をどうすればよいのかわからないまま、松田聖子さんの『風立ちぬ』を自分の部屋で自己流に練習しました。それで先生のところに行ったのですが、ピアノを弾きながらズッコケられて“キミ下手だね”と言われました」

 それでもライバルに引けを取らない強い存在感が北原にあったのはたしかで、'82年度中には『スウィート・チェリーパイ』『土曜日のシンデレラ』と矢継ぎ早にシングルレコードを発表する。

 まばゆい笑顔にチャーミングな振り付けは、男の子ばかりか、女の子も魅了。「親衛隊」と呼ばれるファン組織がつくられた。デビューに際しては“笑顔でね”と事務所に要求され、フリフリした服はいやだと思いながらも着せられ、自分に無理をしてアイドルであろうとしたが、デビューをして周囲の大人たちに褒められたことは、北原にとって生きていく自信につながった。親に褒められたことがなかったからである。

「私はもともと内向的な性格。小学校の学芸会ではセリフのない木の役になって、隠れていられるから安心だったくらい、人前に出るのが苦手でした。そんな私が、戸惑いながら周囲に流されて、あれよあれよとアイドルデビューしました。ただ、望んでアイドルになったわけでなくても、周りの大人が喜んでくれるのはうれしく、頑張ろうという気持ちがわいてきました」

小学校の中学年まではショートカットで、まるで少年のようだった
小学校の中学年まではショートカットで、まるで少年のようだった

 当時、芸能界では新参のオスカーにはテレビ局にコネがあまりなく、競合の参入を怖れた他の芸能プロダクションからの圧力もあったと噂される。そのためレコードが出るたび、北原は全国のレコード店をこつこつ回り、ラジオ局のサテライトスタジオで歌った。駅の地下街やデパートの屋上などで簡易なステージに立ち、歌うのである。

「オスカーさんはモデル事務所だったので、売り出しにはずいぶん苦労しているようでした。テレビの歌謡番組は芸能プロダクションに枠をすでに押さえられ、入り込めないからです。そこで週末のたび、北は北海道、南は九州まで、全国のレコード屋さんを回り、サイン会などをしていました。佐和子ちゃんはそれを嫌がらずにやってくれたので、どのレコード屋さんからも好かれ、いちばんいい場所にポスターを張ってくれたりしました」

 レコード会社のテイチクで北原の販売促進を担当し、一緒に全国を回った森茂雄さんはこう振り返る。他のアイドルと違ってキャピキャピしたところがなく、どこか翳りのある印象から、それまでのアイドル路線から新たな切り口で売り出したのが4枚目のシングル『モナリザに誘惑』だった。ヒット曲を連発させていた作詞家と作曲家のコンビに依頼し、イメチェンを図ろうとしたのだ。

「レコード会社のディレクターはポップス畑の人。最初の何曲かはアイドルっぽい歌でしたけど、急に難しい曲になっていきました。半音ずれてしまったり、レコーディングには苦労しました。もう少し私の実力に合った選曲をしてほしいと思ったほどです」(北原、以下同)