“もう死ぬかも”って考えたとき頭に浮かんだのは……
告知後、体調はみるみる悪化していった。命の期限を突きつけられた財目さん、千葉の自宅から富山の実家に向かい車を走らせている。
「“もう死ぬかも”って考えたとき、まず浮かんだのが母の手料理でした。最後にもう一度だけ、お母さんのごはんが食べたいと思って……」
時は2020年5月のコロナ禍で、緊急事態宣言下だ。
県外ナンバーの車が止まっているだけで石を投げられることもあったころの話である。
「両親は帰ってこいと言ってくれたけど、そう言うのもすごく勇気がいったと思います。GWだったけど、友達もみんな実家に帰れない状態でした。でも私にはもう時間がない、そんなことは言っていられないと思いました。富山に戻ってからは、母に大根の葉のよごしを作ってもらいました。小さいころから食べて育った、母の味でした」
手術は翌月の6月1日。胸から恥骨まで開腹し、子宮を全摘し、さらに両側付属器に直腸合併切除、大網切除、がんが転移している可能性があるリンパ節を切除し、人工肛門を設置している。8~9時間にわたる大手術だった。
コロナ禍ゆえ、家族の立ち会いや面会は許されない。ベッド数も限られ、術後2週間で早々に退院を強いられた。
しかし帰宅後、高熱が続き、退院1週間で再度入院することに。病院で検査を繰り返しても、なかなか発熱の原因はわからない。
「最終的にCT画像に何か映ったのが見つかって、再発の可能性を告げられました。詳しいことは、お腹を切ってみないとわからないと言います。子宮全摘から1か月で再手術になるなんて思ってもなくて。大泣きしましたね」
いざ開腹すると、「がんを摘出すると内臓がなくなってしまうほど病変が広がっていて、手がつけられずそのまま閉じた」と聞いた。財目さんのショックは大きい。
「この時が人生で一番の底でした。がんの告知をされたとき、人生のどん底だと思ったけれど、もっと底があった。もう頑張れない……と」
気力は消えうせ、食べることも、しゃべることもできず、ベッドでただ時をやり過ごした。みるみる身体は痩せ細り、同時に体力は落ちていく。当時を「死を覚悟しました。命が消えかけているという危機感がありました」と振り返る。
30種類あまりあるとされる卵巣がんのうち、財目さんの悪性ブレンナー腫瘍はわずか0・1%ほどの希少がん。医師はどの抗がん剤が効くかわからないと言い、また医師によっても意見が違う。抗がん剤治療に取りかかるも、「いちかばちかのスタート」だった。