ドラマ、CM、バラエティー、クイズ、トーク、歌番組、さらにニュースまで――。テレビをつければ、いまやジャニーズアイドルの姿を見ない日はない。カッコいい男のコを指して「ジャニーズ系」と呼ぶことも定着した。当たり前のように存在する芸能界の一大勢力“ジャニーズ”は、いかにして作り上げられてきたのか――
昭和39年に『若い涙』でレコードデビューをした初の少年グループ『ジャニーズ』の4人
昭和39年に『若い涙』でレコードデビューをした初の少年グループ『ジャニーズ』の4人

 原点は昭和36(1961)年に公開されたミュージカル映画。米ブロードウェイの『ウエスト・サイド物語』を見て感動した野球チームの子どもたちで、歌って踊る4人組のグループが結成される。少年野球のコーチをしていたのがジャニー喜多川氏。球団名からそのまま、少年たちは『ジャニーズ』と名乗り、昭和37年からNHKのバラエティー番組『夢であいましょう』に出演。翌年には『日劇ウエスタンカーニバル』で初舞台を踏んだ。

 いまや平成のテレビを席巻しているジャニーズアイドルだが、その基本はミュージカル。ジャニー喜多川氏は以前の雑誌インタビューでこう語っている。

《歌はカラオケでも歌えますが、踊りは、中学校で初めて英語を習うように、別の世界ですからね。踊りでリズム感が身につく。芝居も歌もリズムが基本です。リズム感さえあればどんな芸能もできますよ》(『AERA』’97年3月24日号、以下同)

 それまでの日本の芸能界に存在しなかった“青少年男性グループアイドル”というジャンルを確立させたのが『ジャニーズ』。当時は橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦らの“御三家”が全盛だったころ。『ジャニーズ』のデビュー曲を作詞したのは永六輔。すでに彼らを“追っかけ”する女性ファンもいた。

 昭和43年には『フォーリーブス』がデビュー。昭和47年にはジャニー喜多川氏がスカウトした郷ひろみが芸能界デビューを果たした。ほかにも結成されたグループやデビューしたソロ歌手はいたが、ジャニーズ事務所が会社化された昭和50年から“低迷期”が始まる。郷ひろみが移籍し、フォーリーブスは解散。

 ジャニー喜多川氏は、当時をこう振り返っている。

《世の中は冷たいもんでね、郷ひろみが移籍したら、みんな態度が変わった。(略)芸能界は、頂点に達すると自分の心も頂点にきて、ふと振り返ると、いつの間にか後ろにはだれもいなかった、という世界かもしれない》

 しかし、昭和54年から放送が始まったTBS系ドラマ『3年B組金八先生』をきっかけに『たのきんトリオ』の人気が沸騰。その後、同じく当時のドラマ『2年B組仙八先生』(TBS系)に出演していた3人で『シブがき隊』が結成される。ただし、彼らはテレビドラマからブレイクしており、ミュージカルを基本とする“本来”のジャニーズアイドルではなかった。

 昭和60年には、すでに芸能界で活躍していた『少年隊』がデビューし、昭和62年にはステージでローラースケートをはいて歌って踊る『光GENJI』がデビューする。国民的アイドル・SMAPがデビューするのは、それから数年後の平成になってからのことである。

 実は、現在83歳になるジャニー喜多川氏は、これまでの功績を自分ひとりによる手腕だとは思っていない。

《ジャニーが死んじゃったら、あとはないんじゃないかって言う人がいるの。マネジャーなしで、自分でやれる人間ばっかりなんですよ。まだ、ボクがいるから、遠慮してるとこ、あると思う。ボクいなかったら、それこそ大活躍できるんじゃないかなあ。だから、ボクが知らん顔して消えちゃったとしても、十分できますよ》

※明日から昭和ジャニーズを支えた主役たちのインタビューを掲載します。