'96年に脳出血で倒れ、17年間の闘病生活の末、'13年1月15日に亡くなった映画監督の大島渚さん。最期まで献身的に寄り添った妻が三回忌を前にして、思うことは――。

 1月6日の午後、《大島》と表札の掲げられた神奈川県の自宅を訪ねると、百合の花を抱えた彼女が出てきた。ちょうど墓参りに行くところだという。同行しつつ、心境を聞いてみた。

――1週間後に三回忌ですね。  

「これまではバタバタと忙しかったけど、ひと区切りという感じがしますね。実は仕事関係の方を呼んで法要をするのは、三回忌までと思っているんです。ご足労願うのも大変なのでね。大島は華やかなことが好きだったから、一周忌はホテルのフレンチを食べながら思い出話をしました。今年の三回忌は、カニ料理のコースを用意しようかなと思っています。長い闘病生活だったので、みなさんに楽しんでもらおうかと」

――今でも介護の日々を思い出しますか? 

「もうほとんど思い出さないですね。介護っていいことばかりではないから。だけど、楽しい思い出もたくさん残っていますよ。お風呂上がりに冷蔵庫のドアを開けると、大島が“ママ”って呼ぶの。それで水を口移しであげていたんです。“1口500円。ツケておくわよ”って(笑い)。息子には“ぼったくりバーだよ”なんて言われましたね(笑い)。ツケはいっぱいあったけど、結局、返さずに逝っちゃった」  

 介護の最中には彼女自身もうつ病を発症している。夫が倒れたのは、妻である自分のせいだと責めたりしたことがきっかけだった。自身も病と闘い、克服しながらの介護生活。過酷な状況ながら、最後までやり通せた理由を聞くとキッパリと笑顔でこう答える。

「それはもう好きだし、惚れていたんでしょうね。フフッ。大島の最期にね、意識はなかったんだけど“私のことを好きなら手を握り返して”と言ったら、キュキュッと握り返してくれて。最期まで心がつながっているとわかったから、それで十分と思いました」  

 現在、夫の寝室は仏間に。夫婦そろって花が好きだったことから、シクラメンや胡蝶蘭を飾り「お花畑みたいにしている」という。また、介護を通して見えたものとして、

「まず自分が成長できたし、家族の絆も深まりました。独り身というのは寂しい反面、自由になったということでもありますよね。今までは大島のために生きてきたけど、これからは自分のためと、人の役に立つ生き方をしたいと思っているんです」