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1972年11月5日から一般公開されたカンカンとランランに日本中から人が詰めかけた

 ’72 年に日中国交正常化を記念し、中国からパンダのオスとメスが上野動物園に贈られたことから巻き起こったパンダブーム。

「当時、ジャイアントパンダの近くを担当していた警備員は、毎日声が枯れるまで“立ち止まらないでくださ〜い”と叫んでいたんです。少しでも立ち止まると、行列が大変なことになってしまうので(笑い)」

 当時のことを懐かしく語るのは、上野動物園で’77 年からジャイアントパンダを担当し、現在は教育普及課動物相談室の葛西宣宏さん。歴史的な出来事だったジャイアントパンダ来日の受け入れ先は、なぜ上野動物園だったのか。

「日本には国立の動物園がないんです。パンダは日本国民へという形でやって来たのですが、そのような場合はほとんど上野動物園が受け持つことになっているんですよ」

 パンダのカンカンとランランが入園した前と後では、来園者数が約2倍に増加したという。

「1日の平均が20万人、土日だとおよそ26万人くらいでした。なので何時間も待って、パンダを見ることのできる時間は1分にも満たないほどの一瞬だったので、申し訳ないなと思っていました」

 当時の日本には遊園地などの娯楽施設が少なかったこともあり、動物園に行くことが定番だったという社会背景も、パンダブームが起きた要因だったと葛西さんは話す。

「いちばん大変だったのは、動物の様子に関しての心配ごとですね。20万人が大挙するので、パンダがパニックを起こしてしまうんです。ただでさえ、中国から移送されてきて慣れない所にいるわけですから」

 呼吸が上がり、心臓はパンクすると思うくらいの状況になることもしばしば。鼻にかかるような声を出して、ずっと泣いていたことも。

「初期のころは、1日の展示を3時間などに短縮し、徐々に慣れさせていくなどの対策をとっていました」

 ほかの動物を担当するよりも、何割増しかのプレッシャーもかかっていたという。

「発情期が近づくと、自宅前で新聞記者の方が待ち構えていて“葛西さん、今日は何か変わったことはなかったですか?”と聞いてくることもありましたね。あまりにもシンボリックな動物だったし、注目度が違うので、やはり重圧は感じました」

 当時のパンダチームは結束が強く、今でも年に1~2回は集まるそう。

「上野動物園でその後、パンダの子どもたちを何頭かつくれたのはカンカンとランランのおかげです。この2頭からは日々生きた新しいデータを教えてもらっていました。上野動物園にとって“教科書”のような存在なんですよ」