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 戦国時代きっての戦略家・真田信繁(幸村)のドラマチックな生涯を描くNHKの大河ドラマ『真田丸』。高視聴率をたたき出しているこの話題作をきっかけに、戦国時代に改めて興味をもったという人も多いのでは。

 武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康……、大物武将の間を、度胸と才覚で渡り歩いた真田一族。知謀百出、わずかな手勢でも勝利をつかんだ彼らの代表的な戦いを、信繁の祖父・真田幸隆の時代から追った。

・信繁の祖父・真田幸隆の「砥石城攻略」

 軍神と言われた武田信玄が敵の10倍以上、7000人の兵を擁しても手も足も出なかったのが、北信濃(長野県上田市のあたり)の「砥石城」。1000人もの死者を出したこの惨敗は「砥石崩れ」と言われ、信玄のプライドをズタズタにしたのだが、そのリベンジを果たしたのが当時、信玄の家臣だった信繁の祖父・真田幸隆だ。

 砥石崩れの翌年、幸隆は、東西が崖、城門への道も急坂で難攻不落と言われた砥石城を、なんと数百人の手勢で落城させた。勝利の要因は幸隆の弟(矢沢頼綱)を城内に潜り込ませ、敵を味方に引き入れ調略に成功したことが決め手になったと言われている。

 これを高く評価した信玄は、この地を領地として幸隆に与えた。真田家は10年ぶりに、砥石城を含む、失っていた旧領(真田郷)を復活させたのである。

・真田昌幸の戦略が炸裂、第一次上田合戦

 1585年、当時の関東の覇者・北条氏と手を結んだ徳川家康は、信繁の父・真田昌幸が領土としていた上州沼田領(群馬県沼田市のあたり)を“北条に譲れ”と昌幸に迫った。昌幸は徳川と断交し決戦を決意。押し寄せる徳川の軍勢は7000人。一方、守る真田は2000人。

 戦いの火蓋が切られると、真田軍は巧みに負けを装って、徳川軍を城の本丸前の大手門まで誘い込んだ。その期を逃さず、真田軍は銃弾と矢の雨を降らせ、徳川軍を大混乱に陥れた。そこに昌幸が率いる本隊が突進。

 さらに四方の山や谷に伏せていた領民3000人余りが襲いかかると徳川軍は浮足立ち、われ先に城外へと逃げた。そこへ信繁の兄・信幸の手勢が襲撃。敗走する徳川軍が神川を渡ったそのとき、真田軍は数日来の雨で増水した堰を切り、徳川軍を壊滅状態に陥れた。

・再び誘い込み戦術が成功、第二次上田合戦

 天下分け目の関ヶ原の合戦に向かうべく、徳川秀忠率いる東軍3万8000の軍勢は、中山道を進軍。途中、西軍に味方する上田城の真田昌幸・信繁親子に降伏を迫った。しかし、真田側は交渉を引き延ばすのみ。これに怒った秀忠は、上田城攻めを開始した。

 すると第一次上田合戦と同様、真田軍は巧みに兵を引きながら、大手門前まで敵を呼び込み、弓矢・鉄砲の一斉射撃で秀忠軍に大打撃を与えた。結局、秀忠軍は関ヶ原の戦いに間に合わず、父・家康の逆鱗に触れた。

・大坂の陣で大活躍! 「真田丸」の戦い

 1614年(慶長19年)10月、関ヶ原の戦いに破れ高野山九度山に幽閉されていた信繁は、豊臣秀頼から求められ九度山を抜け出して大坂城に入城。大坂冬の陣の前、作戦会議で自らの戦略が認められず籠城に決まると、信繁は城の南外側に砦「真田丸」を築き真っ赤な甲冑に身を包んだ兵6000人とともに真田丸に籠もった。

 冬の陣では、巧みな接近戦で徳川方の大名たちにひと泡吹かせたものの講和が成立。徳川方から10万石の条件で誘われるも、信繁はこれきっぱり断った。夏の陣では籠城では勝ち目のないことを悟った信繁は、忍者を使って家康の動向を探った。

 そして迎えた1615年(慶長20年)5月7日、真田隊は家康の本陣めざし突撃。家康本人にあと少しのところまで迫ったが、家康の首はとれずに無念の最期を迎えた。

イラスト/高木一夫

参考資料/『戦国武将ものしり事典』(奈良本辰也監修/主婦と生活社)、『本能寺の変四二七年目の真実』(明智憲三郎著/プレジデント社)、『秀頼脱出』(前川和彦著/国書刊行会)、『家康は関ヶ原で死んでいた』(島右近著/竹書房新書)