高校は中退、年季奉公も続かず東京を目指すが……

撮影/吉岡竜紀
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母の夢、母がなぜこんなところに嫁に行ったかというと、僕に教育をつけたかったから。“道夫、勉強しなければダメだ”、常々そう言っていましたね

 こんな母の願いもあり、丹さんは山を20キロも下ったところにある愛媛県立西条南高等学校農業科定時制に入学する。学費は、ウメさんが畑で取れた作物で醤油や味噌を作っては夫の目を盗み、近所で売って工面してくれていた。

 ところが、こんな苦労の末に入学させてもらった高校を、丹さんはわずか1学期で中退してしまうのだ。

「中学でいた組からは4名が高校に行ったんだけど、20キロもあるから通いきれない。4人でアパートを借りたけど、食事を作る人もいないし。長続きはしなかった」

 ウメさんが嘆く中、義父・高助さんのすすめで八百屋さんに年季奉公をするが、これも長くは続かない。

「ひとりで店番をしなくちゃならなくて、それがなんとも寂しくてね……」

 銭湯でガソリンスタンドの店員と知り合い、誘われて転職するが、高級石けんを1つ買うと給料の大半がなくなるほどの薄給に嫌気がさし、ここも1年3か月で退職した。

「先輩たちは仕事の帰り道、かき氷なんか食べてたね。会社の金なんだけど、“いいんだよ、給料安いんだから”とか言って」

 さらには“ぶらぶらしていてもしかたない”と、中学の恩師・I先生からの誘いで上京。ウメさんの猛反対にも耳を貸さず、東京は人形町の着物問屋で面接を受けるが、これもまた失敗してしまう。

「僕は当時背中が弱かった。それで面接で“身体は丈夫ですか?”と聞かれ、四国出身なんで“お大師さんのやいと(お灸)をすえたほうがいいんです”と答えたら、“そんな面倒な子はいらない”と。それで落ちてしまったんです」

 だが面接の帰り道、生まれて初めての出会いがあった。

「神田でね、面接終わって生まれて初めてそばを食べた。実はそれまで食べたことがなかったの。四国はうどんだからね。ざるそばで、“こんなに食べられない!”と思ったら、ざるで上げ底になっていてね(笑)」

 一代で業界最大級のそばチェーンを築き上げることになる経営者も、親の期待を何度も裏切り、就活で失敗したのだ。もちろん将来そば店の経営で知られるようになろうとは、夢にも思っていなかった。

 夢破れての帰省だったが、ウメさんはわが子の帰還を大喜びして迎えてくれた。

 だがブラブラ遊んでばかりもいられない。仕事を探すと、三輪自動車の運転手を募集していた。大保木村の中央を流れる加茂川で水力発電所建設の工事がスタート、作業員や道具類を運ぶ運転手を探していたのだ。

 丹さんがこの時代のこんなエピソードを披露する。

「僕がバス停にいたら、作業員の男同士がいがみ合っていたんだ。1人は韓国の人で、韓国語で男に罵声を浴びせかけると、男が言い返すのが見えた。そうしたら韓国の人が頭にきたんだろなあ、500メートルぐらい下にあった家に黙って戻ると大きなドスを持ってきて、日本人の男をグサッと。日本人はその場で死んでしまったね」

 昭和25年ごろの話で終戦直後の荒い気風が残っていた。

 だがそんな毎日も、水力発電所の完成と同時に終わりとなる。降って湧いた仕事に蟻が群がるようだった作業員たちは次を考え気もそぞろに。

 15歳になっていた丹少年もそれは同じで、脳裏に浮かぶのは、着物問屋面接の際に垣間見た東京のことばかり。

 ベルトコンベヤーのように流れ行く山手線。爆音を上げて走り去る自動車と、ネオンサインの下、さんざめきながら行き交う若者たち。愛媛の小さな村の青年には、東京の何もかもが眩しかった。

 “もう1度、上京したい。自分自身を試してみたい──”

 丹青年は意を決し、母・ウメさんに思いを告げた。

 “頑張っておいで──”

 母からのひと言を胸に、丹青年は再び東京へと向かう。

 東京でなにをするのか、それ以前に、東京のどこへ行くのかさえも決めないまま、15歳での旅立ちだった。