次なるグレートジャーニー

 そして、グレートジャーニーの余韻に浸る間もなく、関野は、教授でありながら、思い描いていた次の計画を始めていく。その名も「新・グレートジャーニー」である。

『新・グレートジャーニー』のひとコマ

「アフリカを出た人類は、どのようにして日本列島に辿り着いたのか、日本に至る人類の足跡を辿ってみようと思ったんです」

 関野は3ルートを選んだ。それは、シベリアとサハリンを歩き、カヌーで宗谷海峡を渡って北海道に至る「北方ルート」、ヒマラヤを越えて中国、朝鮮半島を経て対馬までの「南方ルート」、そして、インドネシアからフィリピン、台湾を経由して沖縄に到達する「海上ルート」だ。

 大学の夏休みや春休みの長期休暇を利用して、’04年からは「北方ルート」を、’05年から’08年までは「南方ルート」を旅した。最後に残ったのが「海上ルート」だった。

 そこで関野は、新たな“縛り”に挑戦する。

「太古、日本に渡ってきた人たちのように、航海中、GPSやコンパスを使わないのは当然として、シーカヤックを漕ぐのではそれまでの旅とさほど変わりがない。新たな“気づき”は得られないと思った」

 もっと太古の旅に近づけないか──。考えた末に辿り着いたのは、自分たちが使う道具の素材すべてを自然からとってくるという方法だった。

「そう、『一から作る』なんです。これはアマゾンの人たちがやっていることでした。彼らは、自然から調達して自分で作って生活している」

 さらに、砂鉄や鉄鉱石を採集して、カヌー作りに使うオノやナタも自分たちで作ってしまおうというのだ。関野はそれまで、若者たちから「旅に同行させてほしい」と請われていたがすべて断ってきた。

「それは危険ということもあるけれど、若いうちの旅はひとりでするもの、と考えてきたからです。でも、『海上ルート』では若者たちに呼びかけようと思った。ものづくりの大学である武蔵美の学生でも、自らが自然から調達した素材を使ってものを作るなんて経験は、まずない。彫刻や木工を専攻する学生にしても、みんな材料を店で買っています。だから、自然から、一から作ったら、いろんな“気づき”があるんじゃないかと思った。

 そんな体験を60歳を過ぎた自分だけでひとり占めするのはもったいない。50年後、僕はいないけど、50年後も生きるであろう若者たちと新たな“気づき”を共有したかった

 関野は、カヌーの製作、そして実際の航海、さらにその過程を記録するドキュメンタリー映画の製作と上映を「黒潮カヌープロジェクト」と名づけ、学生たちに参加を呼びかけた。関野の言葉に多くの学生や卒業生が集まった。

 ’08年5月、千葉県九十九里海岸でカヌー造りは第一歩を踏み出した。

 まずは、海岸で砂鉄を集めた。オノとナタ、チョウナ、ノミを作るためには、5kgの鉄が必要で、その材料となるのが120kgの砂鉄。座り込み、砂浜に磁石をかざして、砂粒の中から砂鉄を探す。のべ100人の若者が3日間で集めた砂鉄は、150kg。「一から作る」のがいかに面倒か、関野と若者たちはそれを実感したのだ。

『グレートジャーニー』のひとコマ。アラスカでクジラの群れと遭遇

 さて、その砂鉄から鋼を鍛錬するのは「たたら製鉄」という技術だった。武蔵美の金属工房に、レンガで組み立てた箱型の炉、その中に足踏み式の「フイゴ」で風を送る。4人1組でフイゴを踏む。かなりの重労働である。

「アカマツから木炭を作り、たたらをやったんですが、みんなものすごい熱気でした。26時間ぶっ通しで、“わっしょい! わっしょい!”なんてやったもんだから、周辺住民から苦情が来ました(笑)」

 そうして誕生した真っ黒な鉄の塊「ケラ」を刀鍛冶師に鍛錬してもらい、その鋼は和歌山県の野鍛冶師の手によって工具に仕上げられたのだ。

 また、航海に適した縄の素材を探して日本中を回り、最終的にシュロの樹皮から縄を作った。さらに、関野と学生、卒業生たちは、インドネシア・スラウェシ島に渡った。丸木船となる大木探しが目的だったのだが、なかなか見つからない。そこで、現地の人たちが30年前まで使っていた板を継いだ構造帆船・パクール造りに取りかかった。

 作業を始めてしばらくして、周囲6.3mのビヌアンという種の大木を発見。儀式を行い、日本から持参したオノをかわるがわるに振るって丸1日かけて切り倒した。直径1.8m、高さ54mの巨木である。

 帆はスラウェシ島のラヌという素材で織ることにした。

 森で切り倒した大木を、船大工の指示に従って荒削りし、さまざまな過程を経て、丸木舟の「縄文号」と「パクール号」という2艇のカヌーが完成した。開始から完成まで268日が経過していた。

 この船の完成に至る過程で、若者たちは多くの“気づき”を得ている。自然から素材を調達することの意味、ものづくりに対する先人たちの知恵と技術、自然や「もの」に対する畏敬の念などに触れていったのだ。カヌー造りの過程は、学生たちの手によって撮影され、『僕らのカヌーができるまで』というドキュメンタリー映画となった。

 ’09年4月、いよいよスラウェシ島を出発。乗組員は、関野を含め日本人4人、現地のマンダール人6人、年齢も価値観も宗教もバラバラの10人だった。ボルネオ島沿岸を進み、スールー海を北上、フィリピン・パラワン諸島に到達。’10年、ミンドロ海峡を越え、ルソン島北端に達した。’11年、行程最大の難所、台風が頻繁に通るバシー海峡を渡り台湾へ。そして同年6月、沖縄県石垣島に到達した。

 3年をかけた航海は、4700kmに及ぶ。くしくも旅の途中、3・11の東日本大震災が発生、関野の「新・グレートジャーニー」は、単なる探検ではなく、命のつながりまでを考えさせる旅となった。

 この「海上ルート」の映像記録は、『縄文号とパクール号の航海』というドキュメンタリー映画となり、また「北方ルート」「南方ルート」、この「海上ルート」の旅の記録は『新・グレートジャーニー 日本人の来た道』として放映されたのだった。