長野五輪で日本ジャンプチームの金メダルを目撃して

ソチ五輪 表彰台に上がる渡部(写真提供:産経ビジュアル)

 八方尾根を筆頭に日本有数のスキー場が連なる長野県白馬村。この地に渡部暁斗が生を受けたのは、日本がバブル絶頂期に突入しつつある’88年5月だった。

 3つ下の弟・善斗とともに逞しく育った彼にとって、スキーは「日常的な遊び」の延長。通っていた白馬北小学校に5、10、15mの3種類のジャンプ台が設置されていたこともあり、宙を舞い始めたのも早かった。

 大きな転機が訪れたのは小学校3年の2月。地元で開催された’98年長野五輪だ。日本ジャンプチームはラージヒル(旧90m級)団体で金メダルを獲得。原田雅彦(雪印監督)の号泣シーンは今も人々の脳裏に焼きついている。暁斗少年は、その現場にいたのである。

「ブレーキングゾーンというジャンプした選手が着地して止まる枠の前にいたんですけど、雪がすごくて何も見えなかった(苦笑)。それでも歓声と熱気はすごかったですね。白馬のジャンプ競技場にあんなに人が入ったのは後にも先にもあの時だけ。その印象は今も鮮明に残っています」

 子ども心にスイッチが入ったのか、彼は小4に上がった同年4月に白馬村スキージャンプ少年団に入り、本格的に競技を始める。白馬中学校に入った時点ではジャンプ専門の選手になることを夢見ていた。が、スキー部ではジャンプのみならず、クロカンにも取り組むことが決まっていて、渡部もあまり気が進まない中、雪上を走り始めた。

「そのころは週末に飛ぶジャンプが楽しみでやってたようなもんです。クロカンは中学生が5km、高校生になると今と同じ10kmになるんですが、中学生の初めはすごく遅かったし、きつかった(苦笑)。でも学年が上がるにつれて速くなっていったんで、白馬高校に進んだ時、自ら複合を選びました」

 兄の背中を追うように善斗も同じ複合の道へと進んだ。

「暁斗が高校生の時は自分が中学生と常に別のカテゴリーにいたので、それぞれの場所からお互いを見るような関係でした。僕自身は兄という感覚はほとんどない。両親も応援してくれましたが、競技のことはわからなかったので口は出さなかった。自由にやりたいようにやれる環境でした」と弟は当時を語る。

 家族のバックアップを受け、トントン拍子にスターダムにのし上がった渡部は高2だった2006年、トリノ五輪代表に選ばれる。’05-’06シーズンはW杯よりレベルの下がるコンチネンタルカップ(当時はW杯B)を転戦していたのだが、成績が急上昇し、五輪代表枠に滑り込む格好となった。

「トリノへ行ったらテレビで見ていたような人たちが周りにいて、同じ会場で競技ができることがうれしくてたまらなかった。成績は個人スプリント19位。“まあいいんじゃないか”という感じで見物的な感覚だった。日本勢のメダルは女子フィギュアの荒川静香さんの金1つ。全体が沈んだムードだったのに、僕ひとりでへらへらしてました」と苦笑する。高校生で五輪に出れば、そういう感覚になるのもやむをえないだろう。