手首の骨折から恐怖心が生まれて

夏場の地元・白馬でのトレーニング。ローラースキー後のクールダウン

「手はすぐに治ったけど、無意識にかばうせいで、ジャンプのバランス感覚がおかしくなり、次第に恐怖心が生まれていったんです。負傷後の2シーズンは全くダメでしたね。 彼が真の意味でアスリートの苦労を知るのはその先のこと。最初の大きな挫折は高3の時の手首骨折である。’06-’07シーズンを棒に振り、早稲田大学に進学後も不振が続く。

“ジャンプがダメならクロカンで何とかしなきゃいけない”と考えた。世界を回るようになってクロカンのうまい選手を見ると、彼らは緩急のつけ方が非常に長けている。そういう選手の技術やリズムのとり方をまねしながら、ガムシャラなレースを繰り返していくうちに自然と走力は上がりました」

 ’92年アルベールビル、’94年リレハンメル両五輪で団体金、’94年個人銀メダルをとった河野孝典・全日本複合チームヘッドコーチとの出会いも大きかった。

「河野さんが“身体が小さくてパワーのない選手が世界に通じる走りをするにはテクニックの改善をするのが一番早い”とアドバイスをしてくれたのも大きかった。2人でいろんな動画を見ながら、いかに力を使わずにスキーを滑らせるかを熱心に研究しました。一番参考になったのが、バイアスロンの走り方。バイアスロンの選手は銃をブラさずにスーッと走る。それに近づこうとしたんです。荷重のかけ方、足のさばき方といった細かい部分も見直したことで一気に成績が上がり、’09年世界選手権の団体金メダルもとれた。2度目の五輪だった2010年バンクーバーは個人ノーマルヒルこそ21位と出遅れたけど、ラージヒルは9位。前回より順位が上がりました」と渡部は急成長した大学時代を述懐する。

最高のライバルとの死闘

 早稲田時代には人生を大きく左右する出会いがもうひとつあった。それが同期の妻・由梨恵さん(28)だ。彼女もまたフリースタイルスキー・ハーフパイプで平昌五輪有力候補のトップアスリートである。

「暁斗と付き合い始めたのは大学3年の時。同期はみんな仲がよくて、彼も仲間のひとりでした。世界選手権で団体金メダルをとったころでしたけど、プライベートではあまり競技の話はしなかったですね」と由梨恵さんは笑う。

 2011年に渡部はかつて荻原兄弟がそろって在籍し、同じ白馬村出身のモーグル選手・上村愛子さんも所属していた北野建設へ入社。長野市に居を構えた。同じころ、アルペンスキーからスキー・ハーフパイプへ転向した由梨恵さんは、東京でアルバイトをしながら練習する環境を選んだが、体調を崩してしまう。そこで渡部から意外な申し出があったという。

「“ウチの実家に来ればいいんじゃない”と言ってくれたんです。暁斗は長野、善斗も東京にいて白馬にいるのはご両親だけだし、部屋が空いているから……ということで、私自身には本当にありがたい話でした。ご両親も暁斗の彼女とかそういうことは関係なしに温かい目で見守ってくれました。白馬のお土産屋さんでアルバイトもしましたが、“家賃も生活費は一切いらないよ”と言ってサポートしてくださった。1年後には暁斗のいる長野市へ行って、ユニクロでアルバイトしながらひとりで暮らしましたが、彼とご両親の存在があったから今まで競技を続けてこれたと思います」と、由梨恵さんはしみじみ語る。

 当時の彼女は全日本スキー連盟(SAJ)強化選手でありながら、活動費や遠征費は自己負担。恵まれた環境にいる自分とは異なる形で努力する由梨恵さんの存在も励みに、渡部は世界トップを目指した。W杯総合ランキングは’11-’12シーズンの2位を皮切りに’12-’13、’13-’14シーズンが3位と表彰台をキープ。’09-’12年にかけてW杯3連覇を果たしたジャゾン・ラミ=シャプイ(フランス)やフレンツェルら世界トップに肩を並べた。自信を深めた彼は’13年春に「ソチでは金メダルをとる」と宣言。自らにプレッシャーをかけることで、有言実行を果たそうとしたのだ。

 同じころ、由梨恵さんが左ひざ前十字じん帯断裂の重傷を負ってソチを断念したことも、渡部を奮起させる材料になったに違いない。

 冒頭のとおりソチの最高成績は2位。渡部がゴールした瞬間、テレビで解説していた荻原次晴氏が号泣するほど、ノルディック複合界にとっては悲願のメダルだった。最大目標の金メダルには手が届かなかったものの、フレンツェルという尊敬できる選手との死闘を彼は前向きにとらえていた。

「フレンツェルは勝負強さで勝てる選手。ひとつのレースの流れを見て、どこで勢いをつけるか、波に乗るかを的確にかぎ分けられる。そのうえ礼儀正しく正々堂々と戦う姿勢やメンタルも素晴らしい。本当に王者にふさわしいリスペクトすべき存在だと思います」と渡部は心からの敬意を表している。最高のライバルと持てるすべてを賭けて戦える機会を得られる競技者はそうそういない。清々しく晴れやかな思いもあったはずだ。