サボり癖を変えた友人の兄のひと言

 ’83年3月、埼玉県与野市で誕生。7つ年上の姉、1つ上の兄に続く末っ子として育った彼は、現在の姿からは想像もつかない「怖がり」で「泣き虫」の子どもだったという。

左がまだ泣き虫で怖がりだった2~3歳のころの川島。姉、兄と仲のいい3兄弟
左がまだ泣き虫で怖がりだった2~3歳のころの川島。姉、兄と仲のいい3兄弟
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 本格的にサッカーを始めたのは、与野八幡サッカースポーツ少年団に入った小学2年生のとき。しかし、走り中心の厳しい練習が苦手だった永嗣少年はしばしば練習をサボり、友達と草野球に熱中していた。

「当時は阪神ファンで、亀山(努=現解説者)のヘッドスライディングが大好きでした」

 と恥ずかしそうに笑う。

 そんな彼を変えたのが、小学5年生のときに友人の兄から言われたひと言だった。

「プロになる人はちっちゃいころからいつも熱心に練習してるんだぞ」

 時はまさに’93年のJリーグ発足当初。華やかな選手たちに刺激を受け、目が覚めた永嗣少年は一転して“努力の人”となる。少年団時代はDFだったが、与野西中学校に進むと、いちばんやりたかったGKの道を邁進し始めた。

「もともと僕はボールをキャッチすることが大好きなんです」とうれしそうに話す川島にとって、守護神は天職。

 恩師の柏悦郎監督もその素質を見抜いていた。

「永嗣はGKの仕事に貪欲で、自分から上のレベルを求めていく選手だった。声も出せるし、吸収力も高いんで、グングン成長しました」

 中学2年生になると、埼玉県の優秀選手が集まる練習会(トレセン)にも参加。父・誠さんは、息子のこんな姿が忘れられないと懐かしむ。

「トレセンでは、みんなそろいのジャージを着るのに、なぜかウチの息子だけ与野西中のジャージを着ているんです。母校の先生や仲間へ感謝を示したかったんだと思います」

 その実直さや謙虚さは、今も変わらぬ川島の魅力だ。

 強豪校・浦和東高校へ進学すると、毎朝6時半に家を出て、22時に帰宅する日々が始まる。母・法子さんは献身的に息子をサポート。5時に起きて弁当を作り、彼が寝た深夜に練習着を洗った。GKのジャージは泥だらけになるため、洗濯機を回すだけでは汚れが落ちない。それに気づいた川島がわざわざ泥を落として帰宅したこともあった。

「永嗣は手が資本なんだから、冷たい水で練習着なんか洗わなくていいよ。その気持ちだけでホントにありがとね」

 母の思いやりが川島を一層、努力の人へと成長させたのだろう。

 親譲りの優しさやきまじめさを学校側も高く評価。サッカー部の野崎正治監督もその優等生ぶりを絶賛する。

「サッカーへの姿勢は真剣そのもの。栄養管理も徹底していて、遠征先でとんかつが出ると“揚げ物は食べない”と一切、手をつけなかった。ウチはヤンチャな生徒が多かったんですが、進路指導の先生も“試験休みもサッカーの練習があるのに成績優秀だし、悪いことも絶対しない。素晴らしい”と褒めていました」

 ’01年春、川島は当時J2だった地元の『大宮アルディージャ』に入り、小学5年生から夢見てきたプロキャリアの一歩を、力強く踏み出した。