元バニーガールのフリーライター

 さて、4年間で北海道―鹿児島間を歩いてしまったアサヨさんも型破りならば、それに付き合った章子さんもまた型破りな人である。ちなみにあだ名は、『エイリアン』。

 大阪芸大へは、親へのあてつけで入学した。

「普通の四大のほうが親は喜ぶじゃないですか。親が喜ぶ大学には行きたくなかった。当時の芸大は、こんな子ばっかり(笑)」

 大学の近所に2万円で6畳ひと間、風呂なし、ポッチャントイレの安アパートを見つけて自活した。

「貧乏学生のはしりですよね。生活費は喫茶店やスナックでバイトしたり、パチンコで稼いだり」

 卒業後は大学時代から始めたフリーライターを続けながら、なんとウサギ耳のヘアバンドとセクシーなボディスーツで、バニーガールのアルバイトをしていた。

「大阪の中之島にあったプレイボーイクラブで。時給350円の時代に、1700円でしたから」

 ちなみに、このバニーガール、ナイスなボディだけでは採用されない。知性と、打てば響く会話のセンスが必要な非常に狭き門である。

 1982年に大学を卒業してからは、朝日放送の出版局が発刊していた情報誌『プラスQ』の編集部に契約社員として入社する。半年ごとに契約更新というシビアな条件のもと、編集とライティングの技術を磨いた。

 数年後、同編集部は情報誌大手『ぴあ』に買収され、契約社員に採用された。

「遅刻はするわ、昼から酒飲むわ、ホテルがわりに会社に泊まるわで、メチャクチャしていた。組織をわかっていなかったですね。で、4年ぐらいで辞めて。’87年、28歳でフリーになりました」

 翌’88年には、編集プロダクション『ワットコーポレーション』を設立、代表として吉本興業や、テレビ大阪などの広告宣伝の制作物を手がけた。

 当時のバブル景気もあり、1日に締め切り7本、スタッフ5人を抱えるなど仕事は好調を極めた。しかし、2000年ごろから仕事がめっきり減ったため、事務所を閉め、現在の自宅であるメゾネットマンションを購入。新たにギャラリー経営の準備を始める。

「全面改装する前はひどくって。売れ残っていて安かった。ここを選ぶまで200軒見ました。介護もそうだけど、徹底的にするんです、私」

 2003年42歳のとき、『10W Gallery』をオープン、現在にいたるという。

 学生時代からさまざまなバイトに明け暮れ、卒業後も自分の決断を信じて自ら人生を切り開く、こんな姿勢には、大阪芸大在学中の20歳のときにあった出来事が影響しているという。

「お金がなくて、バイトに行く交通費に困った。友達に借りに行こうにもそこまで行く交通費がない。二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくて、18歳で家出して、初めて母に電話をかけた。

 “申し訳ございませんが、2000円貸してもらえませんか? 通帳に2000円振り込んでくれませんか?”と」

 丁重に頼み込む章子さんに、アサヨさんが、冷たく答えた。

「あなたが勝手に出て行ったのだから、あなたが勝手にどうにかしなさい!」

 ガチャンと切られた。

「2000円のお金も助けてくれない。“親には決して頼れない! 自分の人生、自分でどうにかしていくしかないのだ”そう強く思った。すべて自分の力だけで生きていくしかない!」

 この“困ったときに見捨てられた”エピソードをよく人にも話していた章子さん。だが、ある友人にこう指摘されたという。

「お前が強いのは、そんなおかんのおかげやん─」と。

「“きつい親のおかげで、人に頼らず、自分だけの力でどうにかして生きぬく覚悟ができた。

 さらには父親の奴隷のようになっている母を見たせいで、“結婚はつまらん”と。母は反面教師だったんですね」

バリバリ働いた20代。当時はまだ自由な独身ライフを謳歌していた
バリバリ働いた20代。当時はまだ自由な独身ライフを謳歌していた
【写真】認知症の母の徘徊を尾行する様子、章子さんの若い頃など

 妥協がなく、頑固にどこまでもわが道を行くその姿勢。この母子は確かに似ている。

 章子さんの性格も成功も、そして傍目(はため)には壮絶この上ない介護も、すべてはこの母あってのものだったのだ─。