本来の相撲の世界

 私たち相撲ファンは一年前も同じ光景を見た。福岡から東京に戻ってきた日馬富士が羽田空港でたくさんのカメラにもみくちゃにされ、それを生中継で伝えるTV番組。夜のニュース番組がわざわざ「羽田はどうなってますか?」などと放映しているのを見て、それは今伝えることか?と思った。

 もっと伝えるべき大切なことはたくさんあるだろう、と。それは今回も全く同じだ。国会はどうなってる? 私はそちらの方がずっと知りたい。

 相撲協会は貴ノ岩を「本当に引退という形でいいんですか?」と説得したようだが、同じ元・貴乃花部屋で付け人に暴力をふるった別の関取のときは一場所の謹慎だった。今回も謹慎という方向で協会は考えていたんではないだろうか? 

 大相撲という「神事であり、興行であり、スポーツでもある」という多様性のある伝統文化においては、横綱という頂点を目指して精進するのは当然ながら、決してそれだけではない部分もある。

 相撲界は「全く相撲を取ったことのない」素人にも門戸を開き、自分のやれるレベルで自分の相撲を取る、日々稽古に励む、ということが許される。

 また、江戸時代からの興行相撲の歴史の中では、荒くれ者が人を殺めてしまい、地元におられず上京、相撲部屋に入って精進し、力士として人生をやり直したという話も古い本には出てくる。

 高校時代は暴走族に入るなどヤンチャしていたけど、相撲界に入って努力して関取になったというような話はよく聞くではないか。

 相撲界は、社会で生きていく術を学ぶ場でもあるのだ。絶対的番付社会の中で、ピラミッドのどの位置にいながらも、自分なりに頑張り、自分の役割を見つけ、集団生活の中で、人とどう折り合って生きるかを学んで行く。

 お金を負担し力士たちを専門学校などに通わせ、引退後のセカンド・キャリアへの道を開いてあげる相撲部屋も少なくない。相撲界は野球界などの他のスポーツとはあり方が違う。

 ある意味では社会のセーフティ・ネット的な役割を果たしている部分もある。弱いから、負けたから、失敗したからと、すぐに切り捨てない。ここだからやり直せる、生きていける、という大切な場なのだ。

 だからこそ、貴ノ岩にはやり直してほしかった。彼にじっくり考える時間を与えてほしかった。