子どもたちの笑顔がうれしくて

 度重なるプレゼントにお礼を言おうと給食室を訪れたときのこと、ふと好奇心に駆られて尋ねた。

「給食の仕事って、どんなふうに就くんですか─?」

 聞けば公務員で試験を受ける必要があるという。受験には36歳の年齢制限があり、土屋さんにとっては上限の年だった。

「それで受けてみようかなと。公務員だし、お料理作るのが好きだったから。試験会場は(受験生で)ぎっしりでしたね」

 結果は見事、合格。

 ひょんなことから給食のおばちゃんとなり横浜市のあざみの小学校へ赴任した。

「給食のおばちゃん」だったころの土屋さん
「給食のおばちゃん」だったころの土屋さん
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 おしゃべり好きの土屋さんはたちまち小学校の人気者に。子どもたちからの“ごちそうさま!”の声と笑顔が何よりもうれしかった。

 だが、これから始まるリハビリでは、そんな毎日から遠く離れて、身体を無理に動かして運動機能回復に励まなければならない。

 手術直後の寝静まった病院の廊下を歩行器で歩くことから始め、家でも身体を動かす訓練に励む。その合間には、病院まで足を運んでのリハビリが待っていた。

 次男の誠さんが回想する。

「リハビリはちゃんとやっていましたよ。とにかく“治りたい!”というのが根底にあったんだと思います」

 “治りたい! どうしても復帰したい!”そう思わせたのは子どもたちの笑顔。それが再び目にできると思えば、リハビリのつらさも吹っ飛んだ。

 発病3年後の平成2(1990)年、土屋さんは念願の給食の仕事に復帰する。

 復帰後の職場は、横浜市神奈川区にある浦島小学校。児童250名分の給食を作る毎日が始まった。

「うれしかった。また働けるもんね(笑)。子どもたちから、“おいしかった!”なんて言われるとうれしくてね……。ありがとう、ありがとうって」

 とはいえ、給食の仕事は重労働だ。朝8時に開始して、昼直前の11時半までにわずか3名のスタッフで、250名ぶんの食材を刻み、煮て焼いて、炒めなければならない。