母から受けた「心配」という名の支配

 中学は入学式とその後、数日通っただけで行かなくなった。中学2年生の春から夏にかけては特別支援学級、3年生の半年ほどは校内のカウンセリングルームに、いずれも週2、3日行ったことがある。

「どこへ行っても気持ちが休まらなかった。学校へ行かせようとする親との妥協点がそんな感じだっただけ」

 卒業後は母親の要望により、サポート校に在籍した。サポート校は高等学校卒業程度認定試験の合格を目指す人などの学習を補助する、一種の塾のような場。彼は1学年の3分の1くらい登校しただけで、図書館へ行くことが多かった。

「親はもう学校へ行かないことには何も言わなくなっていました。父親はもともと私に対して、よく言えば“自然に接していた”、悪く言えば“放任”でしたから軋轢(あつれき)はなかったんですが、母親は心配性で過干渉。10代半ばからはそれがひどくなって、私がどこかに電車で出かけるだけで“大丈夫なの?”“危なくないの?”って。いつまでたっても幼児扱い。私がレトルト食品を湯煎しようと、鍋を火にかけただけで“あら、すごい。上手ね”って。私は幼稚園児ではないのに。

 そうやって幼児扱いするのは、結局、私への評価が低いからなんです。そして気づいた。本来、私自身が決めるべきことを、ずっと母が決めてきたことに。不登校の代替で特別支援学級やサポート校に行ったのもすべて母の要望。私には1度も決定権がなかった。私の人生なのに……。そこから怒りや憎しみが出てきたんですよね

 17歳のころだった。半年間、1歩も外に出ずひきこもっているうちに負の感情が増幅されていった。突然、悲鳴を上げたり号泣したりしたこともあるという。

自殺したいと思うようになって、自分に危機感を覚えました。そこで、自分で精神科医を探したんです。カウンセリングを受けたほうがいい、と。月に2回通ったけど、医師から特別なメッセージは受け取れなかった。ただ、ひとりで閉鎖的にならなかったのはよかったかもしれません。10代は何もしてこなかったなぁと絶望的な気持ちでした。本当に死にたいと思っていたけど、あと1年たてば何か変わるだろうかと思うところもあって、単純に延期して」

 最初は、彼が精神科に通うことを渋っていた母も、医師とは話をしてくれた。ヤシンさんは母親にアダルトチルドレン関係の本を渡して読んでほしいと頼んだ。ただ、母の反応は鈍かったという。

母は完璧主義者なんです。仕事をしながら家事も手抜きをしない。そんな母が子育てには失敗したことを認めたくなかったのかもしれません

 ヤシンさんは端的な言葉で、自分のことも母親のことも分析していく。