陶芸家神山清子さん 撮影/伊藤和幸
陶芸家神山清子さん 撮影/伊藤和幸
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 長崎県佐世保市に生まれた神山清子が、滋賀県にやって来たのは終戦間際、1944年9月のことだった。

「佐世保の炭鉱で監督をしていた父・繁が朝鮮から連れてこられた徴用工を助けたことから警察に追われ、強制収容所へ送られると知り、家財道具をまとめて逃げ出したんや」

 父が引っ張る荷車には2歳になったばかりの妹・静子を乗せ、小学2年生の清子は5歳の弟・繁美の手を引き、母・トミは荷車を押す。命からがらの逃亡劇。思い返せば、これが波乱に満ちた清子の生涯を暗示する最初の出来事。清子が小学5年生になる寒い冬、一家は信楽に落ち着いた。

陶芸との出会い

 父・繁が銀行からお金を借りて、山を買い、材木工場を始める。清子が今も暮らす家はこのとき、建てたものだ。

「父はお金に困っている社員がいると気前よく前借りも許す。面倒見がよく仏様のように言われとった。ところがお酒が大好きでね、毎晩、人を呼んでは飲めや歌えのどんちゃん騒ぎ。中学のとき、暴れる父を一本背負いで投げ飛ばしたこともあったなぁ。私は護身術を兼ねておまわりさんに柔道を教わっとったから(笑)」

 お嬢様育ちの母に代わり、煮炊きからお酒の世話、お金勘定まですべて清子の役目だった。

「せっかく儲かっても、父がすぐ使ってしまうので、家計は常に火の車。田んぼや畑を借り、お米やサツマイモ、野菜を作って自給自足。でもそんな暮らしが、後に役立った」

 食べるものに限らず、ノートや鉛筆といった文房具にも事欠くありさま。それでも努力家の清子は学校の行き帰り、歩きながら勉強に精を出しテストは毎回ほぼ百点満点。先生からの信頼も厚く毎年、級長に指名されている。

 小学6年のとき、先生の推薦で「陶器のできるまで」を紙芝居にして大きな公民館で発表する大役を任された。ところが登壇すると、頭が真っ白。とんだ赤っ恥をかいた。

 これが、清子が生涯をかけて打ち込む陶芸との初めての出会いだった。

 幼いころから絵を描くことが好きだった。小学生のとき、教室で人気女優の似顔絵を描き、友達からお礼に画用紙や色鉛筆をもらうこともあった。

「中1の秋、たわわに実る稲穂をスケッチしていたら“うまいやつがおるな”と褒められ、月に1度、その美術の先生から絵を教えてもろうた」

 勉強もでき、絵もうまい清子は「将来、美大に行ったらどうか」ともすすめられていた。

「高校の学費を信楽町が出してくれる。そんな願ってもないお話をいただいたのに、“人の世話にまでなって行かせたくない”と父が断ったときはショックやった。晩年、父は死ぬ間際に“謝らな、ならんことがある。高校に行かせてやらなくて悪かった”と言うとった。大学などに行っとったら、女は生意気になる、そう思っとったんやろな」