中学を卒業した清子は父に言われるがままに洋裁、和裁、お花を習うが“絵を描きたい”という衝動を抑えることはできなかった。

「陶器作りの盛んな信楽では、陶器に絵を描く“絵付け”の仕事がある。絵が描きたい一心で私は絵付け師に弟子入り。その人の紹介で火鉢や植木鉢に絵を描く“絵付け工”の仕事に就くことができたんよ」

 当時はまだ“絵付け”をする女性も稀。最初からできないものと決めつけられ、いじめにもあった。しかし、向かい風が吹けば吹くほど清子は闘志を燃やすタイプ。

「成長しようとすれば絶えず敵が現れる。出る杭は打たれるっちゅうこっちゃ。働きながら好きな絵が思いっきり描ける。そう思って、朝から晩まで夢中で絵筆を握っとった」

30歳、陶芸家としての自信

 同じ会社で陶器の制作部にいた男性に思いを寄せられ、清子は21歳で結婚。

 翌年、長女・久美子。25歳のときに長男・賢一を授かり、2児の母になった。

自宅の庭に築いた「寸越窯」 撮影/伊藤和幸
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 しかし、昭和30年代後半に入ると、暖房器具が一般家庭にも行き渡り、主流だった火鉢などの売り上げは頭打ち。27歳で会社に見切りをつけた清子は、信楽焼の伝統的な名物・狸の「型押し」を手伝ってみるが、どうしても充実感は得られなかった。そんなある日、

「庭に出てみると、子どもたちが泥団子を作ってままごと遊びをしてる。その光景を見て、これやな、と思ったね」

 小さな土の団子で大皿をこしらえ、知り合いの窯で焼いてもらうと、素朴だがなんともいえない味のある「小紋様皿」が焼きあがった。

 いくつかの作品をすすめられるがままに公募展に応募してみると滋賀県展・市展、さらに朝日陶芸展にも入選。

─信楽に神山清子あり

 当時珍しかった女性陶芸家の仕事ぶりをひと目見ようと、多くの人たちが訪ねてくる。

 当時、30歳。陶芸家として、ひそかに自信を持ち始めた清子には、ある夢があった。

 隠れ里でありながら、京の都とも接する信楽は、交通の要衝でもあり歴史は古い。

 奈良時代、聖武天皇がこの地に紫香楽宮を作るために多くの渡来系の技術者が移り住んだことから、日本の六古窯のひとつに数えられる信楽焼は生まれたとされる。

「昔の陶工たちは山の斜面をくり抜き、石や粘土で固めた一部屋の穴窯で、なんの釉薬も使わずに美しい色の焼き物をこしらえた。この色は一体どうやったら生まれるんか」

 安土桃山時代には千利休や小堀遠州にも愛された古きよき時代の信楽焼の魅力にとりつかれた清子は、信楽に残る昔の窯跡を訪ね歩き、34歳のとき、自分の家の庭に穴窯を築いてしまう。

「過去の文献を読み漁り、先人たちの窯跡を巡るうちに穴窯の中でたっぷり時間かけて高温で焼きあげれば、釉薬を使わずに古の信楽焼は必ずできる。そう確信したんよ」

 当時は女性が窯を持つことすら許されない時代。しかも釉薬を使わない古の信楽焼を甦らすことなど、女性の清子にできるわけがない。地元・信楽の窯元たちからも嫉妬まじりの嫌がらせを受ける。何を言われても受け流してきた清子を、ある日、思わぬ出来事が襲った。

 ともに夢を語ってきた夫が、住み込みの弟子の女性と家を出て行ってしまったのである。