「高温で焚き続けるため窯の天井が壊れ、まるで生き物のように吹き出した火が燃え盛っとった」

 慌てた清子は、火を吹く天井の穴を粘土で塞ぎ火を鎮めると、寝ていた子どもたちを起こし、3人で砂袋を積み上げ、家中のバケツに水を汲み窯のまわりに置いた。

 火事は免れたものの、その間に窯の温度はぐんぐん下がっていく。

─そうはさせぬ。

「賢一、薪を放り込め」

 家族総出で15分ごとに窯の温度を測り、薪をくべる。薪が少なくなれば、雑木でもなんでもかまわない。清子たちは16日間、無我夢中で寸越窯を焚き続けた。そして迎えた窯出しの日。

「熱い窯の中でピカッと光る花入れや壺、そして水差しが見えた。薪の灰が降り自然の釉薬となって緋色の土肌にビードロの彩りを添えとった」

 と今も興奮ぎみに話す清子。

何日も寝ずに火の番をするため、窯の前にテレビを置いていた
何日も寝ずに火の番をするため、窯の前にテレビを置いていた
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「母はこれこそ古信楽の色やと、黒くなった頬に涙を浮かべ話してくれました」(長女・久美子)

頼られたほうが元気が出る

「信楽自然釉」が1976年、テレビ番組『新日本紀行』(NHK)で報じられると清子は一躍、時の人となった。

 そんな中、清子の弟子第1号になった陶芸家・小野充子(72)は当時をこう振り返る。

「東京の美大を卒業してやってきた50年ほど前の信楽は、今とは違い家もまばら、まるで桃源郷のよう。カレーライスを作るにも牛肉が少ないので先生は片栗粉を入れてトロみをつける。“魔法ネ”と言って片目をつぶるチャーミングな仕草が忘れられません」

 しかし名前は知れ渡っても、生活は決して豊かにはならなかったと清子は話す。

「住み込みで食事付き、しかもお小遣いまでもらえると聞き、弟子が弟子を呼び、最盛期には6人もおった。夕方になると、弟子たちが畑や川に行って、晩のおかずになりそうなものをとってくる。夏休みになると美大の大学生も大勢やって来た。料理はいつも私ひとりで作っとったね(笑)」

 人に頼られたら嫌とは言えない。そんな性格は幼いころから変わっていない。

「頼るよりも、頼られたほうが元気出るんよ」

 清子は、そう言って笑い飛ばす。しかし、大勢の弟子たちと共同生活をさせられた家族はたまったものではない。やりくりに困っている母を見兼ねて、娘の久美子が「こんなに食べて!」と弟子たちに怒りをあらわにしたこともあった。

 久美子は当時を振り返り、

「お金がないからおかずを買うこともできず、スズメなど野鳥の焼き鳥はもちろんイナゴのしょうゆ炒め、金魚の佃煮もよく食べました。弟の賢一が大戸川で釣ってきたナマズの蒲焼きは絶品でしたね」