鉄道好きの“鉄ちゃん”は、国鉄マンに憧れ、高校は大阪府立今宮工業高等学校(当時)に入学。やがて人生の転機が訪れる。

 きっかけは、青春時代にありがちな失恋。

「中学生のときに大好きだった女子にフラレてから、バイト代を貯めては遠くまで蒸気機関車を見に行って“終わるってこと”を考えまくったんです」

 1970年代の当時、蒸気機関車はその役割を終えようとしていた。ホームの隅に、鉄くずのように置かれた姿は、和田さんに“終わるということ”を教えてくれたという。

「約2年間考えた結果、人間ってみんな死ぬんやってことがわかった。どう生きても死ぬときがくる、しかもいつくるかわからへん。ならば今を大事に生きようって思うようになって、弁当を隠す自分がいなくなってしもうた。今を一生懸命、生きようって」

国鉄マン時代『ひまわり』号との出会い

 高校3年生になると学園祭の実行委員長に立候補。生まれ変わったように行動的になった。

「学校と交渉して禁止されていたことをできるようにしたり体育祭で優勝したり、もう別人(笑)」

 人の先頭に立って改革に燃える。高校時代に芽吹いたバイタリティーは、社会に出て、一気に開花していく。

 高校卒業後は初志貫徹で、国鉄・大阪鉄道管理局に入局。

 1年後には憧れだった車両修繕の部署に異動し、油まみれになって働いた。

国鉄に就職し、車両修繕の仕事をしていた20代のころ
【写真】利用者の混乱をおさめた瞬間、和田さんのイクメン姿

 21歳の若さで結婚。子どもも授かった。

 しかし、マイホームパパにはほど遠く、力を注いだのは、労働組合の活動や仲間作りだった。

「ちっぽけやけど正義感と反骨精神が旺盛なんやろね。年次有給休暇が希望どおりにとれるようにとか、若い子らが、技術を身につけられる勉強会を開いてくれとか、先頭に立ってやってたな」

 その一方で、社会的なボランティア活動にも参加。

 そのひとつが、1982年に始まった障がい者に旅を楽しんでもらう、臨時列車『ひまわり号』の取り組みだった。

障がい者に旅を楽しんでもらう『ひまわり号』の企画が、介護業界へ転職するきっかけに

「組合のボスから言われて後輩たちを引き連れて手伝いに行ったのが始まり。反省会の席で、“障がいがあっても列車の旅ができる国鉄にする。それは僕の仕事だ”って生意気なこと言ったら、翌年から事務局長をやれって。10年くらい関わりました」

 世のため、人のため人一倍、正義感が強い和田さんは、力を尽くした。

 国鉄マンとして、誇りをもって働いていた。

 そんな和田さんが、大好きだった国鉄を退職することになったのは、1987年に民営化が決まったときだ。

「僕は反対運動をしていくんだけど、それはすさまじかった。民営化が決まり、僕は退職を決めたけど、それこそみんなの先頭を走ってきただけに、本当の意味で区切りがつくまで、退職から1年かかりました」

 仲間、家庭、仕事、そのすべてと縁を切り、新たな人生をスタートさせたのは32歳のときだ。

 国鉄マンから介護職へ、畑違いの仕事に転職したのは、障がい者の列車の旅の運動がきっかけだった。

「社会福祉の仕事もいいかなと思い始めたときに、ちょうど運動の仲間に高齢者施設を経営されている方がいたのを思い出して、門をたたかせてもらいました」