愛する妻や子と少しでも長く一緒にいたい、せめて1度だけでも家族旅行ができたら……。生に執着しながらも、絶望せずにはいられない渥美さんにとって、できるのは家族の健康を祈ることだけだったのか。

 周知のように、渥美さんは 遺書を残していない。が、これこそが、ひそかにしたためた慟哭の“遺書”ではなかろうか。

手帳の白紙部分の最後のページに渥美清さんが綴った“家族へのエール”
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 渥美さんーー本名“田所康雄”もまた、死を前にすれば、《恥ずかしき事ではないが本当はこわい》と、つぶやかずにはいられない、ひとりの弱い人間だった。

 いや、むしろそれだからこそ、“寅さん”となって弱い人々を勇気づけることができたのだろう。

 また、渥美さんは手帳の中で親しかった人々に別れを告げている。

《浅草の×××元気か、/’83対星館、本多××さんよ/野島は欠(亡)だったのはさみ/しい(ケンカ仲間)よ安らかに拝》
 
 しかし、最も気にかけていたのはやはり家族、なかでも長女の幸恵さんだった。

《幼年幸恵が玄関の/石だたみでころんでケガし/た時は本当にびっくりし/たな忘れられないよ/今は俺の事でおまえ達がびっくりす/る番だよ。》

 そこには、幸恵さんが転ぶ様子を描いた可愛らしいイラストも添えられていた。男親にとって、娘はとりわけ可愛いというが、渥美さんも同様だったようだ。

 幸恵さんへの深い愛情は、別の場所にも表れている。手帳のダイアリー部分、3月10日のところに、
 
 《幸恵 誕》
 
 という文字が……。関係者によれば、

「この日は長男・健太郎さんの誕生日でもあるんです。でも、渥美さんにとって幸恵さんへの思いは格別だったんでしょう。何しろ、ほとんど家族も近づけなかった代官山の勉強部屋にも、幸恵さんだけは足繁く通って身の回りの世話をしていましたから」