「幼少期は夜泣きがひどくて、よく動き回る落ち着きのない子でした。自分でも、それは覚えています」

 憲満さんが自分の半生を語り始める。

 活発なのに恥ずかしがり屋で、人前に出るのが苦手。そんなどこにでもいるような子でありながら、妙に強いこだわりを見せることも。例えば、積み木やブロックで遊んでいて、友達に割り込まれる。すると激しく怒りだす。ひとりで遊んでいるのを邪魔されるのが、嫌でたまらなかったのだ。

「そのわりには、人が遊んでるおもちゃで遊びたいと言って取り合って。ケンカになったりするのは日常茶飯事でした」

絵を描いているときは穏やかだった

 父親の満さんも、保育園時代の様子をこう証言する。

「人が大勢いるところにすぐには入れない、時間がかかる。子どもばかりの集まりに行っても、中のことは気になるんやけど中に入れず、ほかの子どもさんらが遊んでいるのを外から見ている。途中からみんなに誘われて徐々に中に入っていくような、そんなふうな子どもでしたね」

 両親を困惑させるばかりの、こんな一面もあった。

「パニクるんです。例えば楽しく遊んでいるときに、友達からキツいことを言われる、あるいは大きな声で命令調で言われる。そういうのがとにかく苦手で、ギャーと癇癪を起こして収拾がつかなくなる。みんなと一緒に協調するということが、できない子でした」

 そんな男の子が絵にのめり込んでいったのは小学1年のときだった。憲満さんが言う。

「ゲームが欲しくて“買って! 買って!”と言うのと同じように、絵が描きたいとギャーギャー言っていたら、しかたないって感じで、お母さんが無印良品で画用紙を買ってきてくれたんです」

 保育園のころから、絵に取り組んでいるときだけは穏やかでいられた。自宅にあった『地球の本』という本を見て絵を描いたことを、憲満さんは今もよく覚えている。

「本を見て、落書きみたいに模様を描いていたら、先生が“模様の発色がきれいや”って。それが絵を描くきっかけかな」

 満さんが当時を回想する。

「いちばん思い出にあるのは、迷路を描いていたことですね。あとは車とか乗り物とか。当時は今のような緻密なものでなくて、パッパと大胆に描いた、子どもらしい絵でした」

 とはいえ、このころの絵といえば、精神安定剤がわり。絵を離れたときに見せる強いこだわりや癇癪は周囲を困惑させるばかりで、それは小学校でも同じだった。満さんが続ける。

「恥ずかしがって教室に入れないし、先生の話を聞いていられない。上靴はいつも左右反対にはいて、シャツを着てもかならず前後が反対。下着も裏表反対に着て、ひどいとときには靴下のまま廊下に出てしまう」

 当然、問題児扱いされてしまう。母・雅美さんが学校から呼び出され、“どんな教育をされているんですか!?”と先生から詰問、泣いて帰ってきたこともあったという。