喘息持ちの少年、絵画の道へ

 1964年の東京五輪から3年後の'67年。川西さんは経済成長著しい大阪で生をうけた。両親と2歳下の弟の家族4人、東住吉区杭全町で育った。当時の大阪は光化学スモッグがひどく、喘息ぎみだった川西少年は身体を丈夫にするため、少林寺拳法の道場に通った。

 そんな矢先の'72年、近所を流れる平野川の大氾濫で、自宅が水害に遭う。父は絨毯を裁断して貼りつける見本帖の工場を経営していたが、機械がダメになり、廃業に追い込まれた。

 そこから大阪府内で2度引っ越し、さらには「松阪に引っ越すで」という父のひと声で三重県へ転居。結局、6年間で5つの小学校を転々とすることに。転校を繰り返す日々は複雑だったが、自然いっぱいの松阪への移住で、喘息は完治し、元気いっぱいの少年へと変貌した。

 美術の才能が開花し始めたのもこのころ。小学生のときに歯科衛生ポスターで松阪市長賞を受賞したのを皮切りに、中学時代は松阪百景の木版画で特選に入るなど、一目置かれる存在に。才能を高く評価した中学校の担任が、宇治山田商業にいた美術の先生に「こういう子がいるから面倒を見てほしい」と打診した。

 高校入学後は美術クラブに入り、サルバドール・ダリなど超現実主義の画家に憧れ、夢中で絵を描き、賞をとった。

 当時はまだ「芸術で飯を食おう」とは真剣に考えてはいなかったが、美術の先生から「推薦で大阪芸術大学に進まないか」と声をかけられ、気持ちが大きく変化する。

 '86年、日本中がバブル景気で華やかなころに入学。川西さんの周りにも高級車を乗り回したり、高価な画材を惜しげもなく使ったりする裕福な学生がいたが、自身は奨学金を借りて安い家賃の下宿に住み、アルバイトをしながら抽象画の制作に精を出した。

 3~4年時は日本屈指の洋画家・版画家、泉茂先生の研究室に入り、アトリエに通い詰めるようになった。

卒業制作の絵画の前にて
卒業制作の絵画の前にて

「形にはエネルギーがある。丸を描いたときにできるひずみやゆがみは何を意味しているだろう。それを考えなさい。わからなかったら作品を描いて持ってきなさい」

 泉先生は常日ごろから学生にこのような問いかけをしていた。川西さんは「自分を1人のクリエイターとして扱ってくれている」とうれしくなり、創作意欲が湧いたという。

「卒業制作は3mの高さの絵画を制作しました。『輪廻転生』を表現した絵画は10万円で買い手がつきましたが、実は材料費だけでその倍なんですよね……(苦笑)。それでも人生で初めて値段のついた作品ということで思い出深いものになったのは確かです」

 抽象画をより突き詰めたい思いが高まり、卒業後も同大学の専攻科に進学。本来、1年で修了するところを2年間、懸命に学んだ。それから3年間はデザイン学科の研究室で副手として勤務し、作品制作を継続した。