またも突然にやってきた、悲しい別れ

 独立した噂が仲間内に広がり、広告代理店から就職の誘いもあった。待遇のいい会社だったが、「欲しいのはお金じゃない。自由にモノを作りたいから独立したんだ」という矜持があり、後ろ髪をひかれながらも断ったという。

 これを機に営業の電話をかけたり、プレゼンに参加するなど、アクションを起こし、徐々に仕事が入るように。「いい仕事をするサインデザイナーがいる」という評判も広がり、食えない状態からいち早く脱することができた。

 それから数年もたたないうちに川西さんを新たな悲しみが襲う。2008年にたった1人の弟をがんで失ったのだ。

「弟は当時、不動産会社を営んでいて、多忙を極めていました。久しぶりに会ったとき、少し太ったかなと思ったら、『腹が張って身体もだるい』と言うので検査をすすめました」

 ドクターから告げられたのは、信じがたい病名だった。

「大腸がんのステージ4です」

 ショックを受けた川西さんは毎週のように大阪から名古屋に通って弟を見舞ったが、半年後に命を落としてしまう。まだ30代の若さだった。父に続き、弟も亡くすという悲運。そのぶん、自分は妻や子どものためにしっかりと生きなければならない。目の前の仕事に必死に打ち込むしかなかった。

 そんな川西さんの頑張りを近くで見ていた人物がいる。独立前から長く仕事をしている建築家の芦澤竜一さん(48)だ。建築界の巨匠・安藤忠雄氏に師事した後、独立。国内外で斬新なデザインのホテルや住宅などを造っている彼は「柔軟性があるサインデザイナー」と川西さんに絶対の信頼を寄せる。

「最初に知り合ったのは、まだ、びこう社におられた2005年。『ホテルセトレ・舞子』の案件でした。僕自身、独立後ホテルを手がけたのは初めてでしたが、サインデザインというのは非常に重要。全体の意図を要求して細かいところまで詰めていけたので、気持ちよく仕事ができました。ムチャぶりしたところもありますが、何でも笑顔で対応してくれる。そこは本当にありがたいですね

現在、芦澤さん(左)とは新たに森の中にあるようなアメリカの研究所をデザインする仕事に着手している
現在、芦澤さん(左)とは新たに森の中にあるようなアメリカの研究所をデザインする仕事に着手している
【写真】川西さんがデザインした、おしゃれなサインデザイン

 芦澤さんはその後、手がけた『セトレならまち』(奈良市)で、金属を錆びさせた素材を使って、日本の伝統である『わびさび』を表現するサインを取りつけるアイデアを示した。これが川西さんにとっては超難問。サイン業界で錆を使うなどタブーといってもよかったが、建築家の意向を酌んで挑み、形にした。

「芦澤さんの建築はハラハラするものばかり(笑)。天井や壁を斜めにしたりと施工業者泣かせなんですが、すべてはモノ作りの情熱の表れ。ここまでの設計者にはお目にかかったことがない。僕も『やらなきゃイカン』という気持ちにさせられますし、大きな刺激をもらっている。難易度の高いデザインを共有することでより深い思考ができるようになったと思います