志村さんの笑いに対する厳しさはドリフのメンバーや、ボスであるいかりやさんに対しても変わらなかった。

「『全員集合』のコントの大部分は、いかりやさんが作っていたんですが、いかりやさんに“俺のほうがもっとウケますよ”と志村さんが意見することが増えていったんです。もともと独立して自分の笑いをやろうと考えていたくらいですから、舞台に立ってしまうと、先輩だろうが師匠だろうが遠慮も容赦もなかったですよ」(前出・構成作家)

 結局、いかりやさんが志村さんに譲る形で、

「“それほど言うなら志村、お前がやってみろ”と『全員集合』が終わるまでの数か月は、志村さんがすべてのコントを作ることになったんです。でもそれからです、2人がギクシャクし始めたのはね……」(前出・構成作家)

 いかりやさんの求める笑いと、志村さんが目指す笑い─どちらも正解だっただろう。だが、それが皮肉にも2人の間に亀裂を生んだ。『全員集合』が'85年に16年間の放送に終止符を打つと、溝はさらに深まることに。ドリフのもうひとつの代表番組として'98年までレギュラー放送されていた『ドリフ大爆笑』(フジテレビ系)では、決定的な出来事が起きてしまう。

「『大爆笑』でも『全員集合』時代のテイストを残そうとしたいかりやさんに対して、志村さんが"もっと動きのある新しいネタがやりたい〟と。いかりやさんの作るコントに、だんだん志村さんが出たがらなくなったんです」(前出・芸能プロ関係者)

いかりやさんとは一緒にやれない

 '88年ごろになると、2人の対立は、オンエアに影響するようになってしまう。

「“いかりやさんとは一緒にやれない”“番組を降りる”とまで言い出して収録をボイコットすることもあった。慌てたスタッフが折衷案を出して、いかりやさん、仲本さん、高木さんの3人と、志村さんと加藤さんの2人でコントをするという具合に、メンバーを完全に分けて撮るように」(前出・舞台関係者)

 同じ番組に出演していながら、志村さんといかりやさんに関しては、リハーサル日も収録日も別々になった。

「番組内で5人がそろうシーンがなくなったのはそのせい。メンバーも大変だったけれど番組の制作スタッフも“いかりや派”と“志村派”に分かれちゃって大変で……。志村さんは若くて脂が乗りきっていて自分の笑いに自信があったし、いかりやさんはドリフを作り上げて引っ張ってきた意地があった。当時、いかりやさんが作った仲本さんとの“バカ兄弟コント”や“雷様コント”も人気あったし」(前出・芸能プロ関係者”