死にゆく人の言葉が体の不調からくるものなのか、心の痛みからくるものなのか、見極めるのが難しいこともあるでしょう。そんなときには、自分で判断せずに、本人に聞いてみるといいと思います。

「よく眠れない」と言われたら、「何かしてほしいことはある?」と聞いてみて、「何もない」と言われたら、それは心の痛みですから、そばにいて話を聞けばいいのです。

 逝く人の気持ちは非常に振り幅が大きいものだということも、知っておいてほしいことです。

 人間も動物なので、生物学的には最後まで生きていたいものです。ですから当然、「死ぬのは嫌だ」と言うはずです。そうかと思うと「もう死んでもいいんだ」と言い出したりもします。それゆえ、聞いているほうも一緒に振り幅が大きくなってしまいがちです。

「昨日は達観したように『ありがとう』って言ってたから、お父さんは理解してくれたんだわ」と思っていると、「高価だというあの薬は、今からでは効かないだろうか」と言い出したりするので、家族としてはびっくりしてしまいます。でも、逝く人の気持ちの振り幅は大きいものと理解し、その振り幅がだんだんと小さくなって着地していくと思えば大丈夫です。

 体と心は同時に着地態勢には入らず、体のほうが先に「医学では助けられない」と告げられることがほとんどなので、その状況に心がついていくまでにタイムラグがあります。そういったズレのある状況をも見守らなければならないとあらかじめわかっていれば、看取る側の心が潰れるリスクを防ぐことができるかもしれません。

看取る側もずっと心が揺れ動く

 逝く人だけでなく、看取る側の人も「本当に死んでしまうのかな、もう元気にならないのかな」とずっと心は揺れています。

 私のように何度も看取りの現場を経験している人間でさえ、夫の介護のときは揺れました。看護師として冷静に見ると明らかにもう死が迫っている状態であっても、家族としては、まだまだ10年も20年も生きていられそうな気がしました。

『最期の対話をするために』玉置妙憂著(KADOKAWA)
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 誰しも、「ドンと覚悟は決まっていて、揺れません」ということにはなかなかならないと思います。「頑張ってずっと生きていてほしい。でもダメなのかもしれない」という思いになったら、覚悟しつつあるということなのでしょう。結局のところ、看取る側も本人も、毎日揺れながら、その日まで進んでいくしかないのです。

 でも、こうして“誰もが揺れる”ということをわかっておくと、みんなが経験する道なんだと思えて、気持ちが少しラクになるかもしれません。

 また、逝く人だけでなく、看取りをする人もきちんとした“死生観”を持っていたほうがいいと思います。自分が死に対してどういう考え方を持っているか、生きるということをどう思っているかを死生観といいます。

 自分がどう考えているのかという軸なくして、人とは向き合えません。人から何か聞かれたときに、自分の中に「私はこうだ」というものがあれば、たとえその考えが相手と違ったとしても対話ができます。

 ですから自分はどう考えるのか、自分はどう感じるのかということを持っていることが看取りの場では拠り所になります。看取る側の人が軸となるものを持っていないと、重い現実に潰されてしまうこともあるのです。


玉置 妙憂(たまおき みょうゆう)看護師・看護教員・ケアマネジャー・僧侶
東京都中野区生まれ。専修大学法学部卒業。夫の“自然死”という死にざまがあまりに美しかったことから開眼し出家。高野山真言宗にて修行を積み僧侶となる。「非営利一般社団法人 大慈学苑」を設立し、終末期からひきこもり、不登校、子育て、希死念慮、自死ご遺族まで幅広く対象としたスピリチュアルケア活動を実施。講演会やシンポジウムなど幅広く活動している。『まずは、あなたのコップを満たしましょう』(飛鳥新社)『死にゆく人の心に寄りそう 医療と宗教の間のケア』(光文社新書)など著書多数。