『半沢直樹』は“現代の時代劇”

 2013年の放送当時、チーフ演出の福澤克雄氏は『半沢直樹』を、黒澤明監督の時代劇映画『用心棒』のような活劇にしたかったと語っている。

 おそらく福澤氏は、日本の会社組織の闇を描いた池井戸ドラマを時代劇の構造に置き換えたのだろう。

 金融関連の専門用語が多数登場し政治経済やマネジメントの知識がないと作品の全貌を理解することが難しい池井戸潤の小説だが、そういった専門的な知識の部分はあくまで表層で、根底にあるのは、か弱い庶民を苦しめる腹黒い権力者を正義の味方が成敗する物語だ。だからこそ、池井戸ドラマ“現代の時代劇”として大衆から熱い支持を受けている。

 だが一方で、2013年の『半沢直樹』(前シリーズ)には、その後の池井戸ドラマにはない独自の魅力があった。それは、普段は温和に見えても、自分を攻撃してきた相手には容赦なく倍返しで反撃し、土下座するまで追い詰めるという半沢の徹底したやや過激とも見られる正義だ。

 このあたりは堺雅人の緩急の激しいエキセントリックな芝居が相乗効果となっており、善良な正義の味方を超えた「いびつな迫力」がみなぎっていた。

 『半沢直樹』以前の堺の当たり役というと、2012年の『リーガルハイ』(フジテレビ系)で演じた弁護士・古美門研介が思い浮かぶ。

 相手に勝つためなら手段を選ばず、屁理屈を機関銃のようにまくし立てる古美門の姿は悪魔のようで、どんなに正しいことのための弁護をしていても、それはちょっとやりすぎでは? という暴力性があった。それでも『リーガル・ハイ』は、古沢良太氏の脚本が持つ人を食ったようなストーリーテリングが毎回あったため、古美門の邪悪さが、ギリギリのところでコメディの枠に収まっていたのだが、あれをシリアスに演じると半沢直樹になるのだろう。

 大河ドラマ『真田丸』(NHK)で主演を演じたこともあってか、日本を代表する正統派スター俳優という印象が強いが、堺の芝居には善悪という枠をあっさりと超えてしまう過剰な暴力性があり、だからこそ痛快さの中に、ピリッとした嫌な後味が残る。

 そんな堺の持つ危うさが、そのまま作品の振り幅となり、熱狂的な吸引力で大衆を惹きつけたのが『半沢直樹』だった。

 今思い出しても前シリーズ最終話で大和田暁(香川照之)に土下座を迫る半沢の姿は異様で、どっちが正義でどっちが悪だかわからなくなる。だが、あの半沢の常軌を逸した怒りに、東日本大震災後の復興時期に溜まったフラストレーションを重ね、誰かを土下座させたい(責任を取らせたい)という視聴者の鬱憤が、シンクロしたからこそ、絶大な支持を得たのだろう。

 一方、7年越しに作られた続編となる本作はどうか?