とはいえ、オンラインでの当事者会にもメリットがある。地方からでも参加できること、実際に人と接するのは怖いがオンラインならカメラ機能をオフにすることで、顔を見られずに参加できることなどだ。

 匿名で顔も出さずに、人とつながることができる。それが彼らにとって、社会とのつながりをもつ第一歩になる。

「居場所」がなくなる不安感

 7月上旬、ぼそっと池井多さんが主宰する『ひ老会(ひきこもりと老いを考える会)』が都内某所で行われた。顔なじみに久しぶりに会えてホッとする人たちの笑顔が新鮮だった。コロナ禍での近況報告会では、さまざまな話が出た。

「ネットをやっていないので、こんな世の中になってリアルな居場所がなくなって寂しかった。今後も続くとしたら、どうしたらいいだろうか」

「コロナ禍においては、家にいることが推奨されたが、それはひきこもりの得意技。むしろ一般人にはそれができない弱さがあるように思った」

「働くとはどういうことか、改めて考えた。働きたいけど働けない自分だが、人の役に立ちたいという思いはある」

 それぞれの立場で思いを語っていく。そんな時間と空間の中に身を置いて、やはり人が集うのはいいなあと私は実感していた。

「人と会って話す」が生きる意欲につながる

 何度かオンラインでの集まりに参加してみたが、画面の向こうに人はいるのに、その肉体の重さや存在感をリアルに感じることができずにいた。言葉だけが上滑りしていくのだ。リアルな場だと、他者が話しているとき、別の人と目が合い、微笑みあうこともあれば、隣の人とこそっとひと言ふた言交わすこともある。そこにいるすべての人の存在感が場の雰囲気を作り上げていく。会うというのは、互いの肉体の存在を感じ合うことなのかもしれない。

 4か月ぶりに集会に出席した男性の言葉は、心に染み込んでくるようなものだった。

「ひきこもっているので、世の中が動いているのに自分には生産性がない、と不安になることがある。コロナ禍でどこにも出られないと、むしろ安心してひきこもれたから精神状態が安定していた。今日は迷ったんですが、それでも出てきて同じような立場の人たちと話せてよかったと思っています」

 人と会って話すのは疲れる。気を遣いすぎたり他人の言葉が気になったりもする。それでも、人に会うことは固まった心をほぐし、生きる意欲につながる可能性がある。

 コロナ禍はまだまだ続くだろう。失業者は増え、中にはそれを機にひきこもる人もいるかもしれない。だが、心身を休めたら、誰かに会うことは重要だ。自分の肉体をその場に運んで、同じような思いをした人の肉体から「何か」を感じ取って話し合えれば、それは社会とつながることになる。いちばん怖いのは、孤独の中に埋没していくことなのではないだろうか。


かめやま・さなえ 1960年、東京生まれ。明治大学文学部卒業後、フリーライターとして活動。女の生き方をテーマに、恋愛、結婚、性の問題、また、女性や子どもの貧困、熊本地震など、幅広くノンフィクションを執筆