兄の無念と戦争体験

 樋口さんは1932年生まれ。東京都練馬区で育った。先日、閉園したとしまえんのすぐそばで、当時は農地が広がっていた。小学校も分教場しかなく、豊島区の小学校に越境して電車で通った。

 父の柴田常恵さんは考古学者で、慶応大学で教えていた。実母はがんで亡くなり、育ててくれたのは後添えの母だ。2歳上の兄と2人きょうだいだったが、よく「恵子はできが悪い」とバカにされた。

「兄は天才だ神童だと言われた時期もあり、父に偏愛されていました。でも、人付き合いが悪くて孤独でしたね。私は鼻ぺちゃで器量も悪かったけど、お友達とワイワイやりながら先頭に立って何かするのが大好き。楽しく生きていました。だから今にして思えば、兄が私をいじめたのは嫉妬もあったのかもね」

7歳の樋口さん。読書家だった兄と
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 小学3年生のとき急性腎臓炎になった。突然、顔が2倍くらいに腫れあがり尿が出なくなって1か月半入院。退院後も厳しい食事制限が1年以上、続いた。

 6年生になると空襲が激しくなり、長野県に集団疎開した。15歳だった兄が結核性脳膜炎で死亡したと疎開先に連絡が来て、ひとりで東京に戻った。

 '45年春に旧制高等女学校に入学してすぐ、樋口さんも結核を発病して休学。1年半、自宅で療養している間に、戦争が終わった。

「仲のいい友人たちから1学年遅れるのが悔しくて、悔しくて。でも、フワフワ、パーパーした軽佻浮薄な女の子だった私が、後に評論家になれたのは、その1年半のおかげだと思います」

 古本屋巡りが好きだった兄は、哲学書、外国文学、戯曲、日本文学など膨大な蔵書を残した。それらを布団の中で繰り返し読んだことが、土台となったのだ。

「兄は小学校高学年のころ、戦争反対と口にできる年齢ではなかったけれど、明らかに軍国調の日々がつらそうでした。“思想がおかしい”と軍国主義の担任教師にひどく迫害され、行きたい中学にも進学できませんでした。集団疎開でお腹がすいたのもつらい体験でしたが、わずか12、13歳の少年も排除していく同調圧力の中で、思想の自由がどんなに大事か考えさせられました。それが私の戦争体験の中でいちばん大きいことです

 高等女学校に復学すると、自由な空気がみなぎっていた。同級生の加納美佐子さん(87)に聞くと、樋口さんは抜きんでた秀才だったという。

「すごく頭の回転が速くて、憧れの人でした。あのころは学校で演劇が非常に流行っていて、お恵さん(樋口さんの愛称)は小説『小公女』をもとに台本を書いたんです。配役も的確ですごいなーと。1年遅れて入ってきたけど、みんなに一目も二目も置かれる存在でしたね」