事故後の“軟禁生活”

 被告人といえば、旧通産省工業技術院の“元院長”であることや、これだけ大きな事故を起こしておきながら逮捕されないということが大きな話題となり、事故後から“上級国民”として激しいバッシングを受けてきた。事故後の生活はどうだったか。被告人は、事故を起こしたあと入院したが、その退院後の生活について聞かれると「脅迫を受けたり、自宅前で抗議演説が行われるようになり、外に出られなくなった」と供述した。

 それら強烈なバッシングはインターネット上だけではなく、被告人が生活するエリアにまで及んでおり、事故後、軟禁生活を余儀なくされている。この状況には家族も頭を悩ませてきた。“家族や近所にまで迷惑をかけてしまっている”というストレスが被告人の心身を蝕んでもいる。

 人との交流が途絶え、弁護人との事務的な会話だけでは、偏った考えは強固になる一方である。故意に起こした事故ではないことから、加害者であっても身体的・精神的に受ける衝撃は小さいわけではない。それに加え、日本中を敵に回したようなバッシングの恐怖は、共感性をも奪っている。

 常に攻撃や嫌がらせに怯え、安全が保障されていない環境で、罪と向き合うことはできないのだ。

過剰なバッシングが招く悪循環

 「加害者はとにかく謝れ!」と謝罪以外の発言を認めない世間の風潮は強い。土下座や号泣しながら謝罪する姿は、一定の人々にステイタスをはく奪する快楽を与えている。しかし、過剰なバッシングは一時的な応報感情を満たすだけであって、真相解明や加害者の更生につながらないどころか、むしろ遠ざけていく。

 取材に対して沈黙を貫く被告人を糾弾する報道もあるが、たとえ加害者であっても取材に答えるか否かは自由なはずである。今回も被告人はこれまでほとんど取材に応じていないが、重大事件では、裁判への影響を考え、判決確定まで取材に応じないよう弁護人から指示されているケースも少なくない。

 今回の件では、過去には事故が起きた理由として「フレンチに遅れる」という見出しをつけ、被告人が急いでいたかのように報じたメディアもあった。「上級国民」を印象付けるインパクトが大きかったが、被告人が向かっていたのはごく普通のレストランであり、急いでいた事実もない。言ってもいない言葉まであたかも本人が話したかのように報道されるならば、取材をリスクと考え、沈黙する選択をしても不思議ではない。過剰なバッシングによる人間不信が加害者の沈黙を招いているのだ。

 また、裁判は被告人と弁護人で進められており、家族が口を挟む余地はない。被告人が過失を認めていれば、情状証人(被告人の減刑を求める証人)として家族が出廷する可能性もあったと思われるが、本件で家族は完全に蚊帳の外である。

 過失を認めているならば、弁護側の情状立証において、事故発生からこれまでの被告人の反省の過程や、情状証人を通して、被告人の性格や仕事ぶりといった人間らしい側面に少しは焦点が当てられたかもしれない。どれだけ大きな事故を引き起こした加害者であっても、人の子であり、人の親である。しかし、事故を起こして失ったものは何なのか、今回それらが掘り下げられることはなかった。

 公判後、多くのメディアが今回の公判内容を報じると、“上級国民バッシング”が再燃した。しかし、本件から再発防止の教訓を導き出すためにも行き過ぎた制裁は逆効果であることを忘れてはいけない。そして、メディアには司法の枠組みに収まらない真相究明の役割を果たしてほしい。

 事故から2年、ようやく辿り着いた裁判であるが、どこまで真実に迫ることができるか注目していきたい。

阿部恭子(あべ・きょうこ)
NPO法人World Open Heart理事長。日本で初めて犯罪加害者家族を対象とした支援組織を設立。全国の加害者家族からの相談に対応しながら講演や執筆活動を展開。著書『家族という呪い―加害者と暮らし続けるということ』(幻冬舎新書、2019)、『息子が人を殺しました―加害者家族の真実』(幻冬舎新書、2017)など。