あるときは厳しくも温かい父親、あるときは税務調査官、またあるときは心やさしき映写技師……。“いぶし銀”の魅力を放ち、名脇役として数多くの映画やドラマに出演してきた小林稔侍さん。高倉健さんに「進むべき道」を照らされ、名だたる監督に愛され、役者ひと筋に歩んできた。「運だけでここまで来た」と語るベテラン俳優の真意、その知られざる素顔とは―。

「運だけで来たんだよね。ずっと人に寄りかかって、ここまで来たからね」

 今年80歳になる名優、小林稔侍さんは問わず語りにこう言った。1度ならず何度も。

 小林稔侍さんの出世作といえば、NHK連続テレビ小説『はね駒(こんま)』だろう。新聞記者のヒロイン斉藤由貴さんの、義を重んじる寡黙な父親役を務めた。映画では、高倉健さん主演の『鉄道員(ぽっぽや)』で、定年を迎える同僚役を務め、「日本アカデミー賞最優秀助演男優賞」を受賞した。

 テレビドラマなどでは主役を張ることもあるが、脇役としての名演が光る。一本気で、不器用で、どこか思いやりがあり、ほろりとさせるやさしさを醸し出す演技は絶妙である。

 今年、芸歴60年を迎える。単に運や人頼みだけで、これだけ長く俳優の一線を張り続けられるわけがない。

 しかし、返ってくる答えは、「できの悪いやつほどかわいい、と思ってくれた人が使ってくれたんだよな」

 ひと言でいえば、恥じらいのある「含羞(がんしゅう)」の人。俳優は目立ってナンボと言われても躊躇(ちゅうちょ)する。時代遅れかもしれないが、小林さんの俳優としての歩みを振り返ると、そんな個性が多くの監督や俳優に愛され、見る人を引きつけてやまないことに気づく。その魅力は、小林さんがたどってきた歴史と切り離せない。

大学受験をパスして東映ニューフェイスに

 小林さんが普段、運転しているワンボックスカーの後部座席には、車いすを脱着できる機能がついている。

 そのわけを、長男で俳優の小林健さん(50)が明かす。

「僕にとってはおばあちゃん、つまり父の実母が、晩年、上京し一緒に暮らした時期があるんです。病気で車いすを使っていたので、父はクルマに乗せて遊びに連れていってあげたいと思っていたんでしょうね。でも撮影で忙しくて実現しなかったんですけど」

 ワンボックスカーには、小林さんの母親への思いがあふれているのである。

 小林さんは、1941年2月、和歌山県北部の笠田(かせだ)町(現・かつらぎ町)で生まれた。10歳年上の兄と2人きょうだい。父親は洋服の仕立職人で、短気でお人よし、母親は何事にもきちんとした性格だった。

病弱だった幼少期。丈夫にしようと母は工夫を凝らし懸命に食べさせていた

 小林さんの最初の記憶は、「空襲」である。

「4歳だと思うけど、昼間、防空壕(ごう)に頭から放り込まれたんです。外では空襲警報発令のサイレンがうーんと鳴っていてね。地獄の鬼が吠(ほ)えているみたいに聞こえるんだよね。機銃掃射がババババババババーッという音とともに撃ち込まれて、雷が落ちたような感じだったですよ」

 警報が解除されて家に戻り、母親におぶわれて2階に上がると、30キロ離れた和歌山市内が空襲で真っ赤に燃えていた。

「稔侍な、アメリカに負けても、ご飯は1日に3食食べさせてくれるけど、ソ連が攻めてきたら1日にパン1つしか食べられへんよ」

 そう母親に言われたのが忘れられない。

「よほど怖かったんだろうね、そんな言葉を今でも覚えてるんだから」

 幼いころは虚弱体質だった。小児喘息(ぜんそく)の発作をたびたび起こすので、見かねた医師がモルヒネを打つ。しかし薬が切れると副作用で食べたものを全部戻す。それを繰り返すので身体はガリガリ。

「お母ちゃん、殺して」

 か細い声で母親にそう訴えたという。いても立ってもいられなかったのだろう、体力をつけてほしいと思った母親は、ヘビや赤ガエルを乾燥させたもの、牛の血、ナメクジなど、滋養のありそうなものを手当たり次第食べさせた。小児結核も患い一時は生命が危ぶまれた。

「最終的には『ストレプトマイシン』という薬を、アメリカに移住して成功した母方の叔母さんに送ってもらいました。1本2万4000円の注射を何本も。(仕立職人の)親父が1週間かけて1着仕立てて、1万5000円の時代に。命拾いしました」

 病気が治ると、普通の男の子の成長を遂げていく。中学進級を控えて、友達がこんなことを耳打ちするのだった。

「あのな、和歌山大学(学芸学部)附属中学に通う女の子はかわいいらしいで」

 恋愛に憧れを持っていた小林少年は、心底行きたいと思った。ただ、その中学は小学校で学年トップの成績でなければ合格できないという噂。小林少年はそのレベルに達していなかった。

「人生でいちばん勉強した」というほど、通学時間も歩きながら猛勉強した。すると、見事合格した。

 お目当てのガールフレンドも、さっそくできた。

「2人で将来はお医者さんになろうねと夢を語り合って、意を決して半年に1度ぐらい、彼女の家に遊びに行っては最終列車で帰宅していました。帰り通(みち)、駅まで一緒に歩くんだけど、彼女が手を握ってきてね。うぶな僕はどうしていいのかわからなかったね」

 しかし、小林少年の医師への夢は、高校卒業目前にしぼんでいく。体調を崩した小学校と高校とで、それぞれ1年休学するなど、病気のことで心配をかけた母親に家を早く建ててやりたいという思いが強くなったのだ。

「うちは借家住まいだったんです。おふくろが、大家さんに気を遣っている姿を見ているからね。医者よりも早く家を買える仕事は何かをずっと考えていたんです」

 大学受験の願書を書いているときだった。新聞に「東映ニューフェイス募集」の広告を見つける。日ごろから地元の映画館に入り浸り、『電光空手打ち』を見て以来、高倉健さんの大ファンだった小林さんは、「コレだ!」と叫び、すぐさま東映にも願書を書いて送った。

 するとトントン拍子に最終面接まで進む。大学受験日と重なるが、迷わず東映の面接を優先し、詰め襟姿で面接にのぞんだ。当時の大川博社長から「大学を受けないのか?」と問われ、こう答えた。

「僕のような田舎者がニューフェイスの最終審査に残るのは夢のようです。大学は来年受けられますから」

 大川社長は高い声で「うん」と言って面接は終了。わずか1分。ほかの人は10数分も話し込んでいたから、「こりゃ落ちたな」と思った。