後日、東映から手紙が届いた。封を開けると、なんと「合格」。応募者2万4000人から20人採用という難関を突破しての朗報だった。

「自分を飾らず一途(いちず)な思いを示せば、人に通じる」

 そのときの体験は、のちに芝居をするうえでも、小林さんの鉄則となっていく。

 上京当日、父親が駅まで送ってくれた。身につけていたのは、父親が特別に仕立ててくれたツイードジャケット。高倉さんが着ていたものを見本につくってくれたのだ。

 父親とは改札で別れたつもりだった。

 しかし座席に座り、ふと窓の外に目をやると、停車中の貨車と貨車の隙間から父親が身じろぎもせず、こちらを見ている姿があった。心配をかけているんだな、と思い、とっさに目を伏せた。

下積み時代に他人をひがまなかった理由

 '61年4月、東映ニューフェイス10期生として入社し、俳優人生がスタートした。

高校3年の小林少年。目にした新聞広告をきっかけに進路を定め、俳優の道へ
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【写真】家族よりも長い時間を過ごした高倉健さんとの写真

 研修は俳優座で行われた。芝居などズブの素人。それ以前に、方言を直すのに苦労した。アクセントだけでなく、生まれ育った地域の方言で、「ざぶとん」が「だぶとん」、「ぜんぶ」が「でんぶ」となる特性を初めて知らされた。「ざじずぜぞ」が「だじづでど」になってしまうクセを直すのも、かなり苦労した。

 が、ひとつだけうまくいったことがある。泣くことだ。

「実際、泣けたのは俺だけでしたよ。なぜできたかって、ホームシックだったから。1か月ぐらい、枕がべちゃべちゃになるぐらい泣いていたので、泣けと言われたらいくらでも涙が出たんだよね」

 約8か月の研修の仕上げに、10期生が総出演するドラマを撮った。それを見て衝撃を受けた。まるでじゃがいもみたいにあか抜けていないし、話す声もバカっぽい。ショックで数日、寝込んだ。だが絶望の中で思い返した。

「芝居は二枚目だけでは成り立たない。いろんな個性がいて成立するものだ。じゃがいもみたいな俺をどう商品化するかが大事なんだ」

 演技への芽生えだった。

 ただ、芽が出るにはかなり時間がかかる。それは50歳ごろだろうかと思っていた。

 東映東京撮影所に毎日通った。最初は「仕出し」という、群衆や通行人といったセリフのない役をあてがわれた。あるときはギャングA、次はヤクザA……。かなり出番があるので、疲れて隅っこの暗いところに座り込んでいると、監督に怒鳴られた。

「仕出しはそんなところに座ってるもんじゃない!カメラの後ろで立ってろ!」

 仕出しは人間扱いされていないのかと思った。

「何日かして、監督は“サボっていないで芝居を見て勉強しろ”と言いたかったんだと思い直してね。自分の出番がなくても、撮影が行われている芝居の台本を読んでおくんです。もし呼ばれたらいつでも出られるようにね」

23歳のころ。東映ニューフェイスに選ばれるも、仕出しとして地道な下積み生活を送っていた
23歳のころ。東映ニューフェイスに選ばれるも、仕出しとして地道な下積み生活を送っていた

 時々、芝居ができない俳優に監督が業を煮やして、「誰かできるやついないか!おい、おまえ」と小林さんが突然指名されることもあった。そういう役を拾っているうちに出番が増えていった。仕出し1本350円。ラーメン1杯70円の時代である。

 1作品に2度、別の役で登場せよと指示されたときには、素顔のままでは観客に気づかれるからと、機転を利かせてマスク姿で出た。すると、その他大勢ではなく「役」になっていると評価され、8000円の出演料がもらえた。これは23歳ごろのこと。当時は月給6000円だったからギャラの多さがわかる。

 映画デビューを果たしたのは22歳のとき。『警視庁シリーズ・十代の性』('63年)である。このころ、初めて4万円でクルマを買った。

「突然、不安になってきてね。(杉並区)方南町の脇道にクルマを止めて、降りてしゃがみ込んじゃったもんね。買ったはいいが、どうやってこれから生きていけるのかって」

 そんな不安を振り払うように芝居に集中していく。

「たとえピストルで撃たれて死ぬ役でも、見る人が、もうちょっとあの人の芝居を見たいなと思われたいなと。そのためにはどうしたらいいかをずっと考えていましたね」

 深作欣二監督の作品で、ヤクザが着物に雪駄をはいて田んぼを駆けるシーンを任された。迫力を出すために速く走る必要がある。それでも脱げないように、雪駄と足を針金でぐるぐる巻きにして懸命に走った。監督には、「走るのが速すぎる」と叱られたが、気に入られた。不器用でも一生懸命に役に取り組めば、自分を評価してくれる監督がいるのは心の支えになった。

 下積みの時代が長いと、人を妬(ねた)んだり、それに比べて俺はだめだとひがんだり、人の足を引っ張ったりする人がいる。しかし……、

「僕はそれがないんだよね。欠点も多い人間なんだけど、それが唯一の自慢かな。それは親の育て方だよね。愛情をいっぱい受けて育ったから。なんでもよしよしと大事に育ててくれたからじゃないかな。それもあって考えが甘いというマイナス面もあるけど、ひねた考え方をしないから顔が卑しくならなかった。いつも明るい表情でい続けられたのは、振り返ると大きな財産だったと思うね」

 不器用だけど頑張り屋、いつも明るい表情で芝居と向き合っている─。

 そんな小林さんの姿に好感を持っていたのが、高倉健さんだった。

負けず嫌いだった高倉健さんとの絆

 撮影所通いが始まって間もないころ、10期生全員で東映ニューフェイス2期生の高倉さんに自己紹介をした。それ以降、通りすがりに挨拶をすると、高倉さんも「小林くん、頑張れよ」と返してくれるようになった。

「“小林くん”じゃないんだよな~、“稔侍”って呼びつけにしてほしいんだけどな」

 と内心思いつつ、高倉さんに近づく方法を考える。助け舟を出してくれたのが、俳優の控室にお茶を持っていく女性。健さん特製の茶葉があることを教えてくれた。それでお茶をいれ、「いかがですか?」と持参した。