帰る家は失われ、長女の挙式はキャンセル

 賢二さんが事件当夜の記憶を呼び起こす。

「今日はお引き取りいただいて大丈夫です」

 亀有警察署での事情聴取を終えて解放された賢二さんだったが、帰宅する家がない現実にふとわれに返った。自宅が燃えてしまったためだ。心配して病院まで足を運んでくれた、幸子さん所属のママさんバレーの仲間が「うちに泊まったら?」と声をかけてくれ、しばらく仲間のマンションに滞在させてもらった。

「まさに『地獄に仏』のようなお誘いの言葉でした。とにかく一晩だけでも、雨露がしのげればいい。それより先のことは考えられませんでした。翌日からは現場検証が始まりました」

 焼け焦げた自宅の押し入れからすべてを引っ張り出され、ひとつひとつ「これは自宅にあったものか」などと確認される。だが、賢二さんは家のことを幸子さんに任せていたため、答えられなかった。

「家内に聞いてください」と伝えるも、幸子さんはショックのあまり点滴を打って寝込んでいた。その面倒は、ママさんバレーの仲間たちが入れ替わり立ち替わりで見てくれていた。

「警察は事情聴取のために家内のいるマンションまで出向いてくれました。現場検証に加え、葬儀の準備、保険や死亡届の手続きがありました。そんなことが連日続いたわけです」

順子さんが幼いころにディズニーランドへ。左から賢二さん、順子さん
【写真】焼け跡から見つかった、幼きころの順子さんの写真

 ママさんバレーの仲間のマンションには1週間ほど世話になり、仲間が探してくれた近くのアパートへ移った。タンスや冷蔵庫などの家財道具も新調した。

「そこへ引っ越しをした最初の晩のことです。事件後に初めて、私と家内と長女と3人だけになりました。それまではママさんバレーの仲間や警察や誰かしらがついていてくれていた。

 家族3人だけになって改めて、順子はいなくなったんだと。言葉でたとえようもない寂しさ、むなしさ、悔しさ、悲しさがいっぺんに込み上げてきました」

 そう話す賢二さんは、言葉を絞り出すのが精いっぱいといったしかめ面になり、苦悶の表情を浮かべた。

 身内が殺害され、日常の生活に戻されようとも、遺族がそう簡単に社会復帰できるわけがない。仕事を再開したとしても、「被害者の遺族」として生きていかなければならず、自分と周囲との間には心理的な壁が立ちはだかる。

 賢二さんが職場に戻ったのは、発生から約1か月がたったころだった。

「社内でも事件については触れないようにしていました。ところが警察が会社にまで来て聞き込みをするんです。事件当日に欠勤していた社員を全部洗い出したり。大阪の支社にまで行きましたからね。そのせいで、『小林が余計なことをしゃべったから俺が疑われたんだろう』と迷惑がられて、少しぎくしゃくしました。それが悲しかったですね」

 賢二さんの長女には婚約していた相手がいて、事件発生の約2か月前には結納を交わし、翌年の春先には都内のホテルで挙式が予定されていた。

「長女の部屋は放火された火元の真上だったので、いただいた結納品や思い出の写真などはすべて灰と化しました。そのホテルでいちばん大きな披露宴会場を押さえていたんですが、キャンセルせざるをえなくなりました」

 結婚式を挙げるはずの前夜、長女は1人、彼の勤務先がある岡山へと旅立った。東京駅まで見送ったが、寂しそうに歩くその後ろ姿が今も忘れられない。

「本当に可哀想なことをしました」