決して涙を見せず、妻を支え続けた夫の存在

 犯人を逮捕し、事件の早期解決を──。未解決殺人事件の被害者遺族に共通する願いだ。だがその裏で、遺族は心の傷を一生背負って生きていかなければならない。

 事件後に点滴を打って寝込んでしまった妻の幸子さん。それまでは都内の美容院で着付けの仕事をしていたが、しばらく復帰できなかった。いつもは午後4時ごろ、京成金町線に乗って仕事場まで通っていたが、その時間帯に事件が発生したことから、同じ時間帯の電車は2度と乗れなくなった。

「お母さん助けて!」

 という順子さんの声が聞こえてきそうだからだ。

焼け跡から見つかった家族の思い出写真。中には一部焼けているものも
【写真】焼け跡から見つかった、幼きころの順子さんの写真

 順子さんのお墓参りには週1回のペースで通い始め、頭の中には常に順子さんのことが思い浮かんだ。本を読んでも、外出しても「心ここにあらず」といった状態が続き、何事にも集中できなかった。

 精神的なショックから立ち直れず、都内の病院でカウンセリングを受け続ける日々。そんな幸子さんをママさんバレーの仲間たちが支え続けたが、賢二さんもまた、今まで以上に寄り添った。

 バブル期に新橋の職場へ通い、昭和時代のサラリーマン人生を送ってきた賢二さんは「亭主関白」。家ではお互い「おい」(賢二さん)「ねえ」(幸子さん)と呼び合うような関係だったと、幸子さんが振り返る。

「夫は末っ子で大事にされてきたから、わがままなところもありました。娘たちからは『お母さんが何も言わないからお父さんが図に乗るんだよ』と言われていましたね。でもその場で何か言うと火に油を注ぐだけだから、数日たって伝えることにしていました。そのほうが素直に認めてくれるから、効き目はあるんです」

 賢二さんは事件後、幸子さんを人一倍、気遣うようになった。体重が10キロほど落ちてしまった幸子さんの姿を見かねて、

「食べないんだったら、俺も食べない」と、心の痛みを一緒に分かち合ってくれた。

 またある時は、幸子さんがお墓参りに行く途中、仕事場から急きょ早退し、「心配になった」と言って、幸子さんのもとへ駆けつけてきたこともあった。

 幸子さんが「四国のお遍路に行きたい」と言えば、二つ返事で付き添ってくれた。

「私が何かするかもしれないと常に心配し、腫れ物に触るような感じで接してくれていました。家では事件の話はほとんどしなかったです。弱音を吐いたり、涙を見せることもなかったですね。会社の同僚が亡くなったときに家で声を上げて泣いていたことがありましたが、順子のことではそういうそぶりは見せませんでした」

 ひとたび自分が弱さを見せれば、妻はダムが決壊するかのごとくたちまち悲しみの渦に巻き込まれるかもしれない。そうした懸念が常に頭にあったためか、賢二さんは気丈に振る舞っていた。

 事件から1年ほどが経過したころ、「働いてくれたほうが俺も安心するから」と賢二さんに背中を押され、幸子さんは美容院での仕事に復帰する。最初は週1回からだったが、少しずつ回数が増えていった。