「自分らしい生き方」への思い

 義父母の営む中華料理店は常連客が多く、多忙を極めた。ドラマ『渡る世間は鬼ばかり』に登場する『幸楽』のような家族経営。とはいえ姑に悩まされることもなく、義父母はやさしく接してくれた。

 店の手伝いも「嫁いだ以上、やるのは当たり前」と思っていたので、須合さんは毎日せっせと店に通い、注文を取り、ラーメンを運び、どんぶりを洗った。夫婦で一緒に働ける喜びを感じながら、順調な新婚生活のスタートを切った。

 '96年には長女・里緒さん、'99年には長男・圭吾さんが誕生。2人の子宝に恵まれた後も、保育園に預けながら中華料理店で働き続けた。

結婚後、26歳のときに長女が、29歳で長男が誕生。育児と仕事に追われた
結婚後、26歳のときに長女が、29歳で長男が誕生。育児と仕事に追われた
【写真】華奢な身体ながらに重労働をこなす須合さん

 あわただしい生活を送りながらも、おもしろそうと感じたらすぐに動く性分は変わらない。保育園のママ友・辻喜恵子さん(61)に誘われて始めたママさんバレーにも熱心に取り組んだ。

「『竹町アタック』というチームで、みっちゃんは未経験者なのに、ものすごく頑張ってくれました。ポジションもレシーバーからアタッカー、セッターと全部こなしていましたね。運動神経がよく負けず嫌いで、上達も早い。最終的にキャプテンをやるまでになりました。

 練習や試合で納得いかないことがあれば、コーチや先輩にも平気でぶつかっていく。“これは違うんじゃないですか” “もっとこうすべきです”と正面切って意見を言うし、忖度も一切しない。その勇敢さは本当に頼もしいと感じていました

 ここ一番でギアがグッと上がる須合さんの奮闘もあり、「竹町アタック」は下町家庭婦人杯という大会に台東区代表で出場するまでになったという。そのうえで、家族の面倒を見て、中華料理店の仕事もフルでこなしたのだから、体力と気力は想像を絶するレベルだったと言っていい。

 ハードな生活を10年あまり続けたころ、義両親の意向で家業の中華料理店が閉店。生活は大きく変化する。夫は外で働き、須合さんも近隣の病院で夕方から夜までの看護助手のパートに出た。もちろんママさんバレーも可能な限り、参加した。

 そんな2012年のある日、練習会場の近くにあった飲食店『地鶏城 梵厨(ボンズ)』に立ち寄った須合さんは、ふと耳寄りな話を聞きつけた。

「別店舗でランチ営業を手伝ってくれる人を探しているんですけど、誰かいないかな」と。同席していた辻さんに「あなた、昼は暇なんだからやっちゃいなさいよ」とすすめられると、須合さんはその気になり「やらせてください」と、すぐさま手を挙げていた。

「梵厨の接客が好きだったんですよね。お客さんひとりひとりの性格や嗜好を瞬時に察知し、その人に合った対応をしていることがひしひしと伝わってきて、感銘を受けたんです。

 よく考えてみると、中華料理店での義母の接客もそうだった。“来る人みんなを家族だと思って接すればいいんだよ”と嫁いだころから言ってくれて、どれだけ救われたかわかりません。だからこそ、こういう店で働きたいなと感じた。運命のめぐり合わせでした

 個人個人と向き合った丁寧な接客というのは、経営者である大下弘毅社長(43)のモットーでもあった。もともとホテルオークラで働いていた彼は'05年に有限会社K'sプロジェクトを起業。飲食店事業に乗り出した当初から「ホテルで学んだきめ細かい対応を居酒屋でも続けたい」と熱望。オークラのスタッフ数人を引き抜いたほどだった。須合さんは、その心意気に魅了されたのである。

 ちょうど子どもたちも中高生になり、子育ての手が離れた時期でもあった。結婚から長い年月がたち、「ひとり暮らしがしたい」という願望が浮かんでは消えていた。そんな彼女にとって、この出会いは大きな転機となった。

「“自分らしい生き方をしたほうがいいんじゃないか”という思いは結婚生活を送る中で年々、高まっていきました。子どもたちにも“早く独立して家を出なさい” “自分の足で立って歩けるようになりなさい”と口を酸っぱくして言い続けていました。

 私自身は1度もひとり暮らしをしたことがないまま結婚し、妻として母として暮らしてきたので、自分の足で歩ける独立した人生への憧れが強かった。そのことを子どもたちにもしっかりと伝えたかったんです」

 それからは「梵厨」でランチタイムに働き始め、夕方には看護助手の仕事をこなした。数年後、「子どもたちが20歳になったら家を出よう」と決意を固めていた須合さんは、予定より早くひとり暮らしを実行に移した。

大下社長(左)は須合さんに信頼を寄せ、ワイン醸造の道を二人三脚で歩んできた 撮影/矢島泰輔
大下社長(左)は須合さんに信頼を寄せ、ワイン醸造の道を二人三脚で歩んできた 撮影/矢島泰輔

 大下社長がワイン事業に参入しようとしている話を聞いたのは、まさにそんなころ。国産ワインは輸入モノに遅れをとる時代が長く続いたが、'10年代に入ってブドウの品種や栽培法にこだわる造り手が増え、品質が一気に上がった。

 '15年には国内で栽培されたブドウだけを使って国内で造ったワインを「日本ワイン」と定める法律ができ、国際コンクールで受賞する製品も相次ぐなど、ステイタスは急上昇していた。こういった社会的背景も踏まえ、敏腕社長は「多くの人が楽しめるワインを世に送り出したい」と考えたのである。

 須合さんも、その考えに賛同。役員選挙に立候補した小学生のときのように「やってみたいです」と迷わず手を挙げた。当時45歳。ワインはたまにたしなむ程度で、ブドウの種類はもちろん、産地や銘柄もロクに知らない。

 そんな状態で醸造家になりたいと志願するなど「無鉄砲」と言われても仕方なかった。それでも、大下社長は「この人なら任せてもいいかな」と直感したというから、驚きだ。

「実を言うと、最初は私自身がワインを造りたいと考えて、''15年の1年間、長野県のワイナリーで修業していたんです。でも、別の飲食店経営や建設業など複数の仕事があり、社長の自分には難しかった。そこで一緒にやってくれる人を探そうとしたときに須合さんが“私にできることはありませんか?”と声をかけてくれました。

 彼女は店でも常にお客様第一で気配りしていたし、楽しんでもらおうとしていました。信頼できる人だとわかっていたので、ワイン造りを任せても大丈夫だと確信を持てましたね」(大下社長)

 この日を境に、須合さんはワイン醸造家として新たな人生の扉を開けることになったのである。