“権威嫌い”を作り上げた学生時代

 松井は1942年、愛知県豊橋市で7人きょうだいの6番目として生を受けた。父は孤児だったといい、実家は鮮魚店を経て仕出し店になった。

「裕福な家庭じゃないから絵なんて飾ってない。小学校のころは仕出しの配達を手伝っていたくらい」と語るように、芸術とは無縁の幼少期を過ごす。

 当時の様子を、6歳上の姉・千恵子さんは次のように振り返る。

「子どものころから絵を描くのは好きでしたね。知り合いの家に行くと、守男はささっと似顔絵を描いたりして、みんなを喜ばせていた。器用なところがありましたね」

 松井に「子どものころの夢は?」と聞くと、特になかったと返ってくる。家業を長男が継ぐことが当たり前だった時代。次兄以下、堅実な仕事をすすめられ、彼もまた銀行員になるため、言われるがまま勉強した。

 その最中、14歳のときに母を失う。

表情がくるくると変わる。喜怒哀楽を隠さずに語り続ける 撮影/伊藤和幸
表情がくるくると変わる。喜怒哀楽を隠さずに語り続ける 撮影/伊藤和幸
【写真】2年半の歳月をかけて作り上げた超大作『ル・テスタメントー遺言ー』

「高校2年生のときだったと思う。当時の担任の先生から『お前はひとり親だから銀行に入ることはできない』と伝えられた。何のために勉強してきたんだと思ったよね。それで、歌に自信があったからオペラ歌手になってやろうと思ったの。ところが、音楽は子どものころから英才教育を受けている人のほうが圧倒的に有利。これは無理だと思って、もうひとつ得意だった絵であれば何とかなるんじゃないかと考えた」

 長兄は映画業界に入ることを諦め、家業を継いだという。その兄から「絵は貧乏するからデザインをやれ」とすすめられたが、頑なに絵にこだわった。

「デザインをするとなると、会社勤めになる。そうすると、またひとり親がハンデになると思った」

 通例にならうことを嫌った松井は、東京藝術大学のデザイン科をわざと落ち、武蔵野美術大学で油絵を学ぶことになる。「わが家の恥だ」。兄からは、そう罵られた。

 だが、「父は応援していたと思います」とは、千恵子さんの弁だ。

「父は前向きな人で、真新しい地球儀を買ってきて、私たちに『日本というのはこんなにも小さい。広い目を持つように』なんてことをしきりに言う人でした。外国語にも関心が高い人で、教科書や持ち物に名前を書く欄があるでしょ?父はローマ字で記入して、私たちに持たせたものです。今から70年くらい前に、そんなことをするなんて珍しいですよね」

16歳、高校時代の松井(1958年)
16歳、高校時代の松井(1958年)

 松井の、武蔵野美術大学への入学金は、父がこっそりと貯めていたへそくりだった。

「どこかで影響されていたんだろうなぁ」、松井は遠い目をしながら、ポツリとこぼす。

「ぼんやりとだけど、『何者かになりたかった』のだと思う。今思えば、若気の至りとしか形容できないが、芸術の都・パリで挑戦したいと思い立ち、留学を決意したんだよね。ところが、留学先のパリは国立美術学校。釣り合うようにするためなのか、日本は国立大の学生しか認めなかった。

 つまり、東京藝大の学生のみを対象にしていた。でも、フランスの留学試験は政府の試験にさえ受かれば、フランス政府の留学生として迎え入れてくれる。だから私は武蔵野美術大学でも、フランスへ留学することができた」

 フランスのアートに対する寛大さの一例だろう。同時に、日本の権威主義は、昔も今も変わらない。松井は、「僕の権威嫌いはこのとき決定的になったな」と豪快に笑う。