絶望から出発したフランス留学

 渡仏前、日本を去る彼を惜しむように、松井の人生に大きな影響を及ぼす出来事が2つ起こる。

 ひとつは、卒業作品を展示していた新宿の画廊での、ある出会いだ。

1969年、南フランス・イエールのエドゥワール・ピニョンのアトリエにて
1969年、南フランス・イエールのエドゥワール・ピニョンのアトリエにて
【写真】2年半の歳月をかけて作り上げた超大作『ル・テスタメントー遺言ー』

「当時は学生運動もあって、とにかく私は新しいものを求めていたんです。 何かすごいものに出会いたい。そう思って画廊に入ると、縦に三原色を叩きつけたような作品の前から動けなくなった」

 何げなくふらっと立ち寄った画廊で、松井の作品に衝撃を受けた。そう当時の思い出を語るのは、世界的ジャズピアニストの山下洋輔さんだ。松井とは50年来の莫逆の友である。

「これは誰が描いたんだろうと思って、作者と住所を調べ、松井さんに会いに行った。すごい絵を描く方とは思えないほど、とても温厚な青年だった。ただ、絵のことになると、一変して情熱的に話す姿が印象的だった」

 当時の出会いを松井も鮮明に覚えているという。

「だって、有名人の山下洋輔がいきなり訪ねてくるんだよ!(笑)洋輔さんからはたくさん刺激をもらったなぁ。ともに世界を目指す同世代のアーティストの言葉は響いた」

 筒井康隆、タモリを見いだした先見の明の持ち主・山下洋輔から見て、渡仏直前の松井守男は、どう映ったのか。

「一途に自分の絵を信じてやり遂げる人だとわかりました。こんな人はめったにいないという意味では、彼らと同じものを感じましたね」

 山下さんは、フランスに向けて出航する船を見送るため、横浜港まで見送りに出かけたという。

 しかし、この直後の船内で、松井は失意の底に沈むことになる。

 そしてもうひとつ。少し時計の針を巻き戻そう。出発前の状況について、松井はこう説明する。

「大学時代は阿佐ヶ谷にある良家に下宿していたの。当時、日本は少し豊かになりだしていたから、良家のお嬢さんが絵を学ぶことが流行っていた。僕ら美大生は人気があったから、ともにフランス留学する僕の友人─仮にヒロシとしておこうか、ヒロシも僕の下宿先によく遊びに来て、お嬢さんたちと交流を深めていた。そういう中で、僕は下宿先のお嬢さんと仲よくなり、 恋仲になった」

 留学の期間は、最長2年。それまでは国からお金を保障してもらえるが、3年目からは自費となる。そのため、日本に戻ってくるケースが多いという。

 まだ寒さが残る3月下旬、横浜港には山下さんや松井の恋人など、別れを惜しむ多くの見送り客であふれかえっていた。松井は、いかにも良家らしい南部鉄器の茶器を、彼女から餞別の品として渡された。

パリの国立美術学校のアトリエにて
パリの国立美術学校のアトリエにて

「出航から少しして、おもむろに茶器のフタを取ると、中に手紙が入っていた。『守男さん、2年後に結婚します。パリか東京かご指示ください』と書かれていた。感慨にふけっているとヒロシが、『俺ももらったよ』なんて呑気に言い出した。ヒロシの茶器にも同じように手紙が入っていて、2人で見たら『守男と結婚するけど、本当に愛していたのはあなたです』と。まさか僕が見るなんて思わなかったんだろうなぁ」

 絶望からの出発。そう笑うが、松井の表情には哀しさも漂った。

「母もいない、恋人とも心が通じていなかった。日本を恋しく思う理由がなくなってしまった」