“出る杭”として打たれ続けた日々

 政府奨学生として松井に託された期間は2年。それまでに画家として食べていけるまでに成長しなければならない。パリ国立美術学校への入学は10月。松井がパリに到着したのは3月末。時間が空くため、肩慣らしとして「アカデミー・ジュリアン」という誰でも入れる美術研究所に入所した。

「度肝を抜かれた」と、松井が当時を振り返る。

「毎週、絵の評論をするんだけど、僕の絵なんて話題にすらならない。危機感を覚えた僕は、入学資格のあるパリ国立美術学校を、あえて自主的に受験してみた。すると、補欠扱いだった。自分のレベルを知ったことで、入学後は廊下で石膏のデッサンから学び直した」

 10月に日本から留学してきた学生たちは、そのままいちばん上の油絵クラスで、悠々自適にキャンパスライフを送っていた。その後、“パリ留学”という看板を土産に、日本でもてはやされる。その道を嫌った松井は、ひたすら現実と向かい合った。「結果的に、それが基礎体力を作り上げてくれたんだと思う」

 着実に、堅実に腕を磨くことで、次第に学内でも頭角を現すようになる。しかし、
「『出る杭は打たれる』というけど、これはどこの国も同じだったなぁ」と苦笑いを浮かべる。

「あるときは、僕の絵がトイレに釘で打ち付けられていた。政府の役人を親に持つ学生が、僕を学校から追い出そうと画策したこともあった。極めつきは、教授の嫉妬を買い、プロジェクトに参加させてもらえず、放校させられたこと。フランスまで来て、なんでこんな仕打ちをされなきゃいけないんだろうね」

 妬みを通り越したような嫌がらせの数々。フランスが嫌いになることはなかったのか?

「僕の座右の銘のひとつに『捨てる神あれば拾う神あり』という言葉がある。確かにとんでもなく嫌なこともあったけど、それ以上に素晴らしい体験をさせてくれる。頑張っている人や真剣な人に対して、手を差し伸べるのもフランスという国。だから、嫌いになりそうになっても、また好きになっちゃうんだよね」

 放校され、打ちひしがれていた松井は、偶然、自身も出展したグループ展を訪れた老紳士から声をかけられる。身の上を話すと、『モリオ、すまない。フランス人はそんな人間ばかりじゃない。このまま日本に戻ってしまうのは、あまりにもったいない。何か1つ、望みを叶えてあげたい』と言われた。

 拾う神の名は、エドゥワール・ピニョン。画家であり、ピカソの親友として知られる人物だった。

「『ピカソに会わせてほしい』。気がつくと、そう口にしていた。畏れ多くて、本来であればそんなお願いはできないよね。でも、それほどまでに絶望していたんだろうな。これ以上、落ちることはないだろうって」