鬼滅の刃』の映画が公開され、歴史を塗り替えるヒットになる前、作品に登場する女性キャラクター、甘露寺蜜璃の扱いが性的でひどい、胸を強調されているという批判がツイッターで多く共有されたことがありました。

 映画がヒットするにつれてそうした批判の声は小さくなり、『鬼滅の刃』のフェミニズム的側面に言及する声が大きくなりました。前者が間違っていて、後者が正しいのではありません。ヒットしたから意見を変えたのだろう、という揶揄(やゆ)でもありません。

『鬼滅の刃』に対する否定も肯定もそれぞれの個人の感情の必然に根ざした人間の声であり、フィクションとはその否定と肯定が出会い、対話する開かれた場所であるべきなのです。

 良い作品と悪い作品があらかじめ存在するのではなく、作品は良い面と悪い面を持つ多面体であり、それらを丸ごと広告規制することは、良いとされる作品の悪い面、悪いとされる作品の良い面に出会う機会を狭める結果になり得るからです。

 欲望は誰のどのような欲望であれ、欲望の持ち主を「元気にする」面と、別の誰かを「傷つける」暗い面を持っています。必要なのはそうした欲望に対する開かれた議論であるように思います。

 映画『ダークナイト ライジング』が公開された時、コロラド州の映画館では銃の乱射事件が発生し、多くの死傷者が出ました。事件と、前作『ダークナイト』も含めた映画との関係は不明です。

 しかし、その後もアメリカのヒーロー映画は悪の描写を自主規制するのではなく、社会から孤立した悪の問題に向き合い続けているように思えます。

 村上春樹の小説『1Q84』では、ふかえりと呼ばれる17歳の少女が登場し、主人公の幻想の中で性的なシーンが描かれます。

 世界の村上春樹が書いて各国の書店でも売られているのだからいいのだ、ということではなく、そうした村上春樹の少女幻想に対する厳しい批評も含めて、社会はフィクション作品に広く開かれているべきであり、新聞にはその広告が掲載され、そして掲載された作品には多くの視点からの自由な批判がされるべきであると考えます。

 歪んだ欲望に必要なことは広く開かれた場所で他者の視線と声に出会うことであり、禁止と規制で欲望を暗く狭い場所に押し込めることは、歪んだ欲望をさらに歪めるからです。

PROFILE●CDB(シー・ディービー)●Twitterを中心に好きな映画や人物について書いている。『文春オンライン』『Real Sound』『FRIDAYデジタル』などで芸能時評を執筆。著書『線上に架ける橋 CDBのオンライン芸能時評 2019-2021』(論創社)