真摯に芸能活動を続けていた錦織。演劇に深く関わり続けた縁もあり、数多くの名作戯曲を生み出したつかこうへいさんに見いだされて'99年には『蒲田行進曲』の主役に抜擢される。

「つかさんの舞台は出合う前から好きでした。あの人の舞台は、稽古のときから常に全力なんです。何度も同じセリフを大声で繰り返すので、激しい稽古でしたよ。この経験が芸能人としての分岐点のひとつだったと思います」

少年隊のリーダーはジャニーさん

 日本のショービジネスの大物2人の教えを受け、演劇に関する思いを強めていった錦織。次第に、ジャニーさんから舞台演出の仕事も任されるようになる。

 その一方で、'08年には少年隊主演のプレゾンが終了するなど、グループとしての活動は縮小していったが、この方針転換は“織り込み済み”だったようだ。

「ジャニーさんは結成当時から“少年隊はグループじゃない。ゆくゆくはひとりひとりで、活動できなきゃダメだ”と言っていました。僕らは仲がよかったとかではなく、ジャニーさんのセンスで集められたところから始まっていますしね。最初から、それぞれが別々に活動する構想だったんですよ」

'86年、紅白に初出場した『少年隊』。司会の加山雄三が『仮面舞踏会』を『仮面ライダー』と間違え話題に
【写真】東山紀之、植草克秀、錦織一清、紅白に出場した少年隊の3人が美形すぎる

  そもそも『少年隊』というグループは、ほかのアイドルとは一線を画していた。

よく『少年隊』のリーダーは自分だと言われますが、正しくはジャニーさん。グループの活動はジャニーさんや事務所主導で決められていました。だから、僕ら3人で集まってミーティングをしたり、活動方針を決めたことは0回。後輩の『V6』や『嵐』たちはメンバー同士で話し合って活動方針を決めたりしていましたが、僕らはなかったんです」

 それぞれの道を歩み続けた3人。彼らをつなぎ留めていたジャニーさんは'19年にこの世を去ってしまう。

「ジャニーさんから任された舞台の仕事があったので、事務所にも所属し続けていました。でも、ちょっと辞めるのが遅すぎたかなと思っています。プレゾンは40歳の半ばまでやらせてもらいましたが、どうして『SMAP』のような後輩に譲らなかったんだろうって気持ちもありました」