マスクをしない理由を「実は呼吸器に痴患があって、息が不自由だから」のように説明する形で、本来なら他人に知られることを望まない情報まで「見せなければ」ならなかった例も、少なくなかったでしょう。

 あまりにもプライベートが可視化された状態に慣れすぎた結果、私たちは「見せる」ことに伴う副作用の存在を忘れ、逆に「見えない」ものが持っている価値を感じ取れなくなってはいないでしょうか。コロナ禍では目に映る「街路に人影がない」「全員がマスクをしている」といった光景からしか安心感を得られず、なんらかの事情で自粛やマスクの着用が難しい人もいるかもしれないといった、他者への想像力が消えていました。

 そうした状態では政府が採用する政策も、同調圧力に基づき自粛やワクチン接種を推し進めることで、感染者がゼロになるような「目に見える成果」ばかりを追う形に偏ってゆきます。

 だから意見や感じ方の違いを前提に、互いに調整しあって眼前の困難を「一緒に耐え忍んでゆく」方向ではなく、困難自体の「存在を社会から消去する」――その障害になる少数派は「いないことにする」世相が優勢を占めていく。

 なんらかの「答えを出す」タイプのポジティブ(積極的)な能力は、その存在を具体的な結果や実績、保有者のプロフィールなどで目に見える形にしやすい。しかし「なにが正解なのかわからない」状態を、むしろ安易な答えに飛びつかないことによって、自身と違う考えの持ち主とも相互に尊重しあいながら乗り切るネガティブ(消極的)な能力は、視覚化には向かないのです(帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ』参照)。

 個人のプロフィール欄には記すことができない、人と人との間の「不可視」の信頼や寛容さこそが、危機の中でもその社会がどこまで日常を維持できるかを決める――。平時との違いだけを「誰の目にも際立たせる」極端な政策ばかりが躍る裏面で、私たちがすっかり忘れてしまっていたのは、そうした感受性ではなかったでしょうか。

情報を「見せる」ことで国民を操る権力

 そもそも世界で最初に新型コロナウイルスの流行をみたのは中国の武漢市で、同市がロックダウン(都市封鎖)されたのは2020年の1月。地理的に近い日本への影響は目前と思われましたが、このとき国会で野党主流派(立憲民主党ほか)が最も力を入れていたのは、当時の安倍晋三首相が前年までの「桜を見る会」に誰を呼んでいたか、その名簿を「見えるところに出せ」という要求でした。

 その印象を残したままで同年2月末からコロナ禍に突入した結果、政府のコロナ禍をめぐる対応についての不満が国民のあいだで高まっても、それが野党への期待につながることはありませんでした。この事実は、意外に大きなことを示唆しています。