若きカリスマ時代から抱えていた意外な一面

 多くの人を魅了するカリスマ性は以前から持っていたようだ。フリーアナウンサーの白井京子は広島の高校に通っていた'68年、当時の拓郎をこのように振り返る。

「まだ全国デビューする前の大学4年生でしたが、そのころ人気だった雑誌『平凡パンチ』で〝和製ボブ・ディラン”と紹介されて市内でも有名人。広島にある『本通り』という繁華街を歩くだけで〝拓郎だ! 拓郎だ!”と、人だかりができるほどの人気でした」

 白井は拓郎を中心に集まった〝広島フォーク村”に所属していた。

「〝村”といっても内容は音楽サークル。会費は特にとらず、当初は決まった集合場所すらなく、あとになってたまり場ができましたが、ビル内の12畳ほどのスペースでした。みんな学校の帰りに集合して、仲間同士でわいわい話し合ったり、ギターを弾いたりしていましたね。拓郎さんはいつも話題の中心にいましたよ」

 フォーク村とは別に、拓郎は河合楽器のギター教室で学生バイトもしていた。

「教室の廊下に女生徒の行列ができていました。私も通っていましたが、コードをどのように押さえるかを優しく丁寧に教えてくれました。怒られたりはしませんでしたね。ただ、可愛い子だけ月謝をとらずに教えたりもしていたとか(笑)」(白井)

 女性には優しかった一方、さんざん怒られたというのは、前出の常富氏。

「広島から上京して間もないころは、無愛想で全然打ち解けてくれませんでした。彼は〝東京の人間にナメられたくない”という気持ちが強かったのでしょう。よく〝ヘタクソッ”とか〝そんなんじゃ俺のバックはできない”と怒鳴っていましたよ。かなり鍛えられましたね」