生きていくために残飯も食べた子ども時代

 川村信子は、在日韓国人2世として島根県に生まれた。5人きょうだいの長女。小さいころはリヤカーで残飯を集め、家畜の餌として売ることで生計を立てている、裕福とは程遠い家庭だった。

「残飯の中から食べることができそうなものを、母が選んで洗ってくれて。生きていくのに精いっぱいやった」

 10歳のとき、一家は大阪へと引っ越す。生活は変わらず貧しいものだったが、「それより差別がひどかった」と苦笑しながら当時を振り返る。

「韓国人というだけで、学校の先生からも同級生からも、たくさん差別を受けました。好きだった男の子も、私が韓国人だとわかると態度が豹変して……それで失恋したときはさすがにへこみました」

 今でこそ明るく話す信子会長だが、思春期の女の子の心中は穏やかではなかっただろう。「何でもはっきり言う子やったからね」。そう回想するように、時には悪目立ちすることもあったというが、持ち前の負けん気で、いじめを働く男子学生を“成敗”していたというから、マダムの片鱗、恐るべしである。

 後日談となるが、マダムブリュレがヒットした後、信子会長は仕事関係者や取引先が大勢集まる場で、自身が韓国人であることを公表した。

「父や母からは言う必要なんてないのにと言われたけど、私は自分の生まれに誇りを持っていた。公表後、あるデパートからは取引の打ち切りを告げられたけど、それがなんやねんですよ」

 日本国籍を取得する前の韓国名は、「許信子」。著書『やまない雨はない』には、こんな一節が書かれている。

 ─人を許して信じられる人間になるために、さまざまな困難や試練と戦い続けてきたような気がします─

「貧乏で差別も受ける。でも『なにくそー負けるか!』という気持ちだけは強く持っていました」

 父の指示で、18歳にして見合い結婚をさせられたが、杓子(しゃくし)定規な道ではなく、自分で人生を切り拓くことを渇望していた信子会長は、厳格な父に逆らう形で離婚する。

「父からすれば恥以外の何物でもない。結局自分ひとりで生きていくしかなかった」

 たどり着いた先が、自ら「天職やと思う」と語るサービス業、水商売だった。

20歳でスナックを経営したころ 撮影/山田智絵
20歳でスナックを経営したころ 撮影/山田智絵

 その言葉どおり、破竹の勢いで水商売の手腕を発揮していく。20歳で経営した喫茶店兼スナックを皮切りに、北新地の高級クラブでナンバーワンになると、自ら店を経営するまでに。不動産事業や貴金属販売なども手がけ、実業家として頭角を現すと、ついには上京。38歳のときには銀座のクラブのオーナーママに上り詰めた。

 銀座進出後、信子会長の人生を左右する出会いが訪れる。

「バイト希望で男の子が面接に来たんやけど、顔を見るとずいぶんくたびれていたから話を聞くと、俳優やモデルを目指して大阪から上京したけどうまくいっていないと。夜の仕事にも向いてなさそうだったから『ご飯代とタクシー代や』と言うて、1万円を渡して帰したんです」

 翌日、彼は律義にレシートとおつりを返しに再び来訪した。

「こんな優しい子が、競争社会のモデルやタレント業界で生きていけるとは思えへん」。半ば呆れたが、信子会長はそのきまじめさを買い、「金庫番にはちょうどいいかも」と雇用する。現・カウカウフードシステム社長であり、伴侶となる夫・幸治さんとの出会いだった。

「自分がこうと決めたら、そこに向かって突っ走る人。そして本当に面倒見がいい」

 照れくさそうに幸治さんが、信子会長の印象を話す。その姿は、今も昔も変わらないと言う。

「会長は華やかに見えると思うのですが、その陰ではものすごく努力をされている。白鳥のように、水面の下では必死に水をかいている。そして、お客様に対しても、社員に対しても愛が深い。そういう姿に惹かれていったんだと思います」(幸治さん)

 2人の年の差は、実に19歳。だが、「交通事故に遭ったと思ってください……」。出会いから数年後、幸治さんからこうプロポーズを切り出された。そして、共に人生を歩むことを決意した。

「色ボケだの財産目当てだのいろいろ言われましたよ。でも、私は幸治くんの控えめやけど、日々努力を怠らない性格が大好きで。この人とならプライベートも仕事も何があっても乗り越えられると思ったんです」

 このときはまだ、その言葉を確かめるかのような受難が降りかかるとは、当然、2人は知らなかった─。