仕事に没頭しすぎて制服で出社!?

 フジテレビの朝に必要なのはリニューアルではなく大改革だった。総合司会にフリーの小倉智昭さんを迎え、『ナイスデイ』の後番組として『情報プレゼンター とくダネ!』の準備が進められる。プレゼン形式でニュースを伝える番組に「笠井アナは不可欠」と判断された。

 が、笠井さんには葛藤があった。3年前、メイン司会からリポーターになることを自分は拒否した。状況は今回も同じではないか……。

夕方のニュースのメインキャスターとして多忙な日々を送った
夕方のニュースのメインキャスターとして多忙な日々を送った
【写真】病室から自身の情報を発信していた笠井さん

 そんな笠井さんの心中を察したのは、新番組の命運を託された小倉さんだった。

「番組を引き受けるに当たって、僕がいちばん心配していたのが笠井のことだったんですよ。直前の番組で司会をしていたのに、次の番組で僕をサポートする役に回るというのは、アナウンサーとしては屈辱の部分もあるはずです。それでも頑張ろうって、彼がどこまで本気で思ってくれるのか」

 小倉さんは、笠井さんと直接話をする機会を持った。そして、“決意”を聞いた。

「大丈夫です、僕は小倉さんとやりたいです」

 葛藤を消したのは、飛躍するチャンスを見つけたからだった。新番組では芸能ネタだけでなく、政治・経済・社会ネタも取り上げる。30分間で世の中の“いま”を伝える『とくダネ!TIMES』のコーナーを、笠井さんは全権を持って任された。伝える情報は自分が選ぶ。ディレクターの原稿に指示を出し、自分でも原稿を書く。そして自分の声で視聴者に伝える。

小倉さんと『とくダネ!』のスタジオで
小倉さんと『とくダネ!』のスタジオで

「制作デスク兼任で仕事ができるんです、こんなにおもしろい仕事は、司会者にもできないと思いましたね」

『とくダネ!』は、同時間帯の視聴率で他局を圧倒。小倉さんの歯に衣(きぬ)着せぬ本音トークで始まる番組は、「朝のワイドショーを変えた」と評された。小倉さんは言う。

「僕が奔放に話せたのは、局アナの笠井や佐々木恭子がツッコミ役やブレーキ役になってくれたおかげなんですよ。オープニングで何を話すか、毎回彼らには一切伝えていなかったから、僕が考えていたオチを笠井が先に言っちゃったりすることもあったけれども(笑)、本当により良きパートナーだった」

『とくダネ!』の2時間半前に始まる『めざましテレビ』に出演している軽部さんが出社すると、アナウンス室にはすでに笠井さんがいたという。

「3時くらいには来ていて、台本を作り込んだりしていましたからね。それは彼らしい熱意ではあるんだけれども、要領は悪いんです。目の前にやるべきことがあると、そこに集中して他のことに気が回らなくなる。アナウンス室では有名なエピソードですが、笠井は息子さんの制服を着て会社に来たこともありましたよ」(軽部さん)

 目が覚めれば仕事モード。服を間違えたことにも気づかない。それでも仕事では結果を出し続けた。会社からも評価され、'07年にはアナウンス室専任部長に昇格。そして、

「アナウンサーとしてもっとレベルアップしたいという思いが強くなったんです。45歳くらいから、僕は家族よりも仕事に向き合うようになってしまいました」

 '11年3月11日。東日本大震災が起こると、笠井さんは取材の先発隊に名乗りを上げた。部長クラスのアナウンサーが災害直後の現場に入るのは異例のこと。『とくダネ!』では連日笠井さんの生々しいリポートが報じられた。

東日本大震災で宮城・東松島を取材する笠井さん
東日本大震災で宮城・東松島を取材する笠井さん

 笠井さんが被災地から戻ってきたのは2週間後。その後も取材のために毎月東北を訪れた。そんな父親の様子を、息子たちはテレビで目にしていた。そして、ますみさんにポツリと言った。

「お父さんは僕たちよりも東北の子どもたちのほうが大事だもんね」

 東日本大震災から数年が経過しても、笠井さんが息子たちと一緒に過ごす時間はほとんどない状態だった。会社の仕事だけでなく、年間130本の映画と100本の芝居を見る。それもレベルアップの糧。3時出社、23時帰宅の毎日が充実していると思えた。その自分の生き方に、笠井さんは疑問を持たなかった。