目次
Page 1
ー 「聴くと元気になれる」名曲を次々と生み出した半生
Page 2
ー 事務所の仲間とともに、かつての仲間のために作った新曲
Page 3
ー '90年代は音楽漬けで爆走し続けた
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ー 母の夢、借金のカタ、祖父の趣味が作った大黒摩季の下地
Page 5
ー 札幌で様々なバンドのボーカルに参加
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ー 大黒“摩紀”から大黒“摩季”へーー
Page 7
ー 歌いながら死なれたらみんなが困る
Page 8
ー 手術後に気付かされた「不調の原因」
Page 9
ー 「私、超越しちゃったかもしれない」

 11月27日、滋賀県ひこね市文化プラザ。ステージには、大黒摩季率いるバンドメンバー。観客は総立ちで色とりどりのサイリウムを左右に振る。笑顔で歌うのは、あの名曲『ら・ら・ら』だった。

「聴くと元気になれる」名曲を次々と生み出した半生

 この日は、全国47都道府県を巡る大黒摩季30周年記念ツアー『SPARKLE』のSeason IIの最終日。これまで訪れたのは34都道府県6公演、そして'23年1月14日からデビュー記念日となる5月27日まで残り13都府県(発表されているSeason IIIは24公演)を回ることになる。

 大黒摩季といえば、'90年代初頭のミュージックシーンに忽然と現れ、『DA・KA・RA』、アニメ『スラムダンク』のエンディングテーマ『あなただけ見つめてる』、ドラマ『味いちもんめ』の主題歌『ら・ら・ら』などが大ヒット。

 '95年7月に発売したアルバム『LA・LA・LA』は161万枚、同年12月に発売された初のベストアルバム『BACK BEATs #1』は、286万枚という驚異的なビッグセールスを記録した。

「聴くと元気になれる」

「自分を応援してくれる」

 熱烈なファンも多い、まさに'90年代を代表するシンガーソングライターである。

 デビュー30周年を迎えた大黒摩季。その半生とはどのようなものだったのか。

独立して15年、デビュー当時の事務所に戻ったワケ

 東京・六本木にある大黒所属のレコード会社・ビーイング――。

 笑顔で現れた彼女は、ものすごく気さくな人だった。話すのは苦手、と言いながらも、音楽への思いを熱く語る言葉は止まらない。彼女の口からまず出たのは、ニューアルバムについてだった。

燃え尽きました。もう出し切っちゃって、ミイラみたいです。今回は、いつも以上に最初からマスタリングまですべての工程に自分が立ち合っているから、耳にタコができるくらい聴きました。ほかの誰にも聴こえないような音にまでこだわりましたからね」

 大黒は'92年、ビーイングからデビューを果たし、多くの楽曲を発表したが、2001年にビーイングから独立。その後、2010年から病気療養のため活動を休止するも、2015年に楽曲提供を再開し、16年にはビーイングでの再出発を発表した。

出戻ったビーイングには、'90年代を共にした精鋭たちがまだ残っているわけですよ、長戸プロデューサー(ビーイング創設者・長戸大幸氏)率いる野武士軍団みたいな人たちがね(笑)。

 私は独立してからジプシーのようにいろんなメーカーさんと付き合ってきたんだけど、作品作りのクリエイティブに関しては、やっぱりビーイングが一番!!しつこくて厳しくて、引き出しがいっぱいある。うちのスタッフには、無謀な言い出しっぺの私にどこまでも付き合ってくれる持久力があるんですよね

 当初、30周年のツアーが終わって、このアルバムをリリースしたら、唄い手としての大黒摩季は隠居して、作家に専念するつもりだったと彼女は告白した。

「だから、歌も本気で最高峰を狙ったし、作家としても、『大黒摩季』に歌わせるのだったら、ここまでやらせようという作品を作った。『大黒摩季』にもうちょっと頑張らせる曲をわざと作家の私は作るわけです。

 よくステージのMCでも、“私は死に損ないのゾンビ”って言うんですけど(笑)、“死ぬ気で生きる、って苦くて辛いじゃないですか?でも、“一度死んだ気で生きる”と全てが有難くて、そもそも歌えるだけで幸せ♪で楽しいわよ”と言ってるんです」

 死んだ気――。そう、実は大黒は1度死んでしまうかもしれない状況に陥ったことがあったのだ――。